月別アーカイブ: 2013年2月

【Mac】「IMG_5290」が「20130220IMG_5290」になる方法

こんばんは。今デ情の友達と旅行でトルコのイスタンブールに来ています。めっちゃ楽しい。グストンブールです。ところで、今日こんなこと思ってました。「一眼で撮った写真をFinderに入れたら勝手に『IMG_5402』みたいなファイル名になるけど、5402は日付とか時刻でもなんでもないし、これが自動で『201302201524』(年月日時刻)とかになったらクソ便利だなー」と。で、調べたらMacでできる方法ありました。

このブログの読者にとってイスタンブールのおもしろ漫談とどっちが聞きたいかって考えたら一目瞭然なので、今日は楽しくイスタンブールのおもしろ漫談をばIt’s joking.HahHah.

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やり方はまじ簡単。まずMacに標準搭載されてるAutomatorをアプリケーションから選択して起動。読み方は「アウトマトア」Oh,boy.joking,joking.

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起動したら「フォルダアクション」を選択

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「追加しない」をクリック。

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各選択項目をいじくり回して上の画像の赤枠線内のようにする。

右上の枠線内には、「このフォルダに入れた画像データに対して魔法をかけて欲しいな☆」と思うフォルダを選択。僕は「ピクチャ」>「写真フォルダ」>「トルコ旅行」を選択。

おおーっとここで「リネーム用フォルダ作れって先に言っとけボケナス」と思いながらサイドバーの「ピクチャ」内に「一眼」なり「写真フォルダ」なりのフォルダを作成して魔法をかけたいフォルダを作成だあ。

つまりね、このフォルダにぶっこんだ写真(IMG_5290など)が自動ですぐに20130220IMG_5290になるということなんだぜすげーだろ。

できたら⌘+Sで保存。名前は「リネームだぜ」でも「トルコわっしょい」でもなんでもいい。

これで完成…と思いきや違う。まだ。

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Finderを開いて魔法をかけたはずのフォルダを右クリック。

「フォルダアクションを設定…」をクリック。

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さっき作ったリネームだぜでもトルコわっしょいでもなんでもよかったときにつけたフォルダアクション名が下の方に出てくるので選択して「関連付ける」をクリック。

これで完了。おしまい。

そしたらこの魔法がかかった「トルコ旅行」フォルダに「IMG_5290」とかのファイルを入れるとあら不思議。数秒待つと「20130220IMG_5290」になるではあるではありませんかうひょうひょうひょひょ。

ちなみに、Automator起動して最初に「フォルダアクション」じゃなくて「サービス」を選択しとくと、任意のフォルダに入れたやつが勝手に魔法かかるんじゃなくて、右クリックで任意のフォルダに魔法がかけられるようになる。

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フォルダアクション作るついでにこれも作っとくと便利。

さらにちなみに、フォルダアクションは入れ子になってるフフォルダすべてにかかるわけではないみたい。「トルコ旅行」フォルダに魔法をかけたらかと言って「トルコ旅行」の中の「ブルーモスク宮殿」フォルダの中の写真には魔法はかからない。そういう場合は「ブルーモスク宮殿」フォルダを右クリックして「フォルダアクション設定」クリックして作ったフォルダアクションを選択すればok。

どや。

なんか間違いあったらコメント下さい。訂正します。

もう友達寝てしもたわ。

おやすみ。

ろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ

追記。20130222

家のiMacでもやってみたらAutomatorのバージョンは同じなのになぜか「Finder」で検索してみても日本語で「Finderの名前を変更」が出てこない。英語がいっぱいでてくる。でも大丈夫。「Rename Finder Items」を選択すれば大丈夫。

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あとは同じです。

おれは常に動機がクソ

こんにちは。最近Indesignが使えるようになったグストンです。Indesignめっちゃ便利です。ポートフォリオ作成には必ずイラレではなくインデザですね。

さて今日はコアなつまらない話を。

デ情っていうのはいろんなことをやる学科で、グラフィックもやればwebもやるし音響もやるしで、「なんでもできるけどなんにもできない」と言われたりします。これといった専門分野を自分でしっかり決めないとどれも中途半端で終わるということです。卒業制作を見ればその出口の多さがわかるんですが、商品立案してる人もいればインスタレーション、絵本、デザイン論、映像などホントに様々です。

で、僕はまだ「これだ!!」っていうものがないというか、一応webが一番好きだなと思っていて将来はDeNAとかのIT企業行けたらかっけーなあと思ってはいるんですが、実はその動機の多くは「これがやりたいから」ではなく「これやっとくとまあいい感じなんじゃない??だよね??」というのがあります。クソみたいな話だよ今日は。

そもそも、やりたいことが明確にあってそれをやるために建築学科なり空間演出デザイン学科なりの「専門分野が明確にある」ところに入った人はさぞ幸せだろうなと思うわけです。やりたいことできる。生まれてきてよかったと思えるだろなーと羨むわけです。

だって僕はやりたいことが明確にあってデ情に入ったわけでもなければ、やりたいことが明確にあってムサビに入ったわけでもなければ、それなりの理由があって大学に入ったわけでもなければ、好き好んでこの世に生を授かったわけでもないんですよ。根本の話になっちゃいますけど、そんなこと考えちゃうわけですよ。

大学に行く理由だって、周りの人がみんな大学に行くと言うし、そういうもんだと思うじゃん??親は大学に行け!なんて言わなかったけど、でもやっぱそういうもんだと思うじゃん??で、どうせ大学行くならおれ小さい頃から絵を描くの好きだから美大にしようと思ったわけですよ。

そうして明確な目標を持って、受験勉強に明け暮れた日々はまー幸せでしたよ。すんごく幸せでしたよ。寝ても覚めても暇さえあれば勉強して、勉強が「時間の使い方の正解」だと信じて疑わずにすみました。「おれやるべきことやってる」「周りの人みんなが偉いねと思ってくれてる、認めてくれてる」と思えたら僕は幸せなのです。勉強は楽しくないし面倒だったけど、「これさえやっていればいい」という思い込みは自分を嫌いにならずに済みました。自分を好きでいれることが、他のどんな楽しいことよりも僕にとっては幸せなのでした。根本的に自分大好きですから。

でも大学に受かって春休みになった途端、目標はなくなってしまいました。目指していたゴールがなくなって360度見渡す限り道さえなくて荒野にぽつんと立たされたかのような状態です。必死こいてたくさんのことを我慢して受験を乗り切った、という感覚もないので、春休みに友達と遊びまくりたいともあまり思えませんでした。迷わず僕は春休みに教習所に通いました。車の免許はいつか必ず必要になるだろうし、その日のために今のうちからやっとくといい、そういうもんでしょ??と思ったからです。受験勉強と全く同じ動機です。「これが一般的な正解」だと思えれば僕は盲目的に努力できるし、それだけで「おれ、やるべきことやってる」と幸せになれるのです。「人生の過ごし方の正解」を常に求めていて、自分の意志などなく、盲目的に目標に向かって走り続ける。なぜならとにかく走っていたいから。走り続けてさえいれば自分を好きでいられて幸せだからです。恐ろしい考え方だとは思いますが、もう僕はこういう人間なんだと割りきってます。

人生って長い暇つぶしだと思います。家に引きこもって親に衣食住をもらいゲームばかりして何十年と過ごす人もいれば、世界中の人を感動させる映画を作る人もいます。だけど、全員スタートは同じで、気づいたら生まれてたわけでしょ??その中で自分のやりたいこと見つけて、自分のやってることにある程度満足して生きられるというのは本当に羨ましいし尊敬する。やりたいことがないというのはとてもつらいです。わからない人にはわからないだろうけど。

昔から、超一流のデザイナーとかアーティストとか別の職種でもとにかく「偉い人」がテレビで特集されていると、「こういうことすると人にこうやって褒められるのか」「これを目指せば正解か」とか思ってしまってました。動機はいつも「いいもの作りたいから」ではなく「そういう風になりたいから」なんです。動機として後者が前者より不十分であり弱いものであるとわかってますが、どうしても僕は後者なんです。僕は、なんで大学の課題を提出するのかというと、将来一流のデザイナーになりたいからじゃなくて、自分を好きでいたいからなんです。

epa!に打ち込んでいる間も没頭できて幸せでしたが、それさえ「いい舞台を作りたいから」ではなく「没頭している自分が好きだから」です。舞台というものが多少好きだから没頭できたというだけなんです。没頭さえできて打ち込めて、自分を好きで入れたらそれでいいんです。こんなこと 言って一緒に頑張ってた友達に失望の目で見られても仕方ないですが、僕はそういう人なんです。動機はいつだって自分中心です。人生っていう規模で話をしてもここは変わらなくて、僕の生涯を通しての生きる目標は自分を好きでいることに尽きるんです。

そこまで言いながら、課題は遅れ提出したり、計画通りにこなせず満足いかないクオリティで、それでも単位のために渋々提出したりしています。こういうとき自分が嫌いになります。満足いかないものだったとしてもとりあえず提出して単位を取りたがる理由さえ「とりあえず大学って出とくといいもんなんでしょ??」というものでしかないからです。自分を好きでいたいという理由がすべての原動力のくせに、「眠いから二度寝」とか「やる気でないから課題に手を付けない」とか平気でやっている自分が未だに意味がわかりません。矛盾しています。それでも自分好きでいたいから、なんとか二度寝しないライフハックややる気を出す方法などを全力でそれこそ死に物狂いで考えたりします。死に物狂いで作品を作っているような美大生に、死に物狂いでやる気の出し方考えてる美大生が敵うわけ無いと思いますが、それでもそうするしかないんです。

もっと言うと、めちゃくちゃ不謹慎だけど、今この瞬間に僕の半径5メートル以内に原爆が投下されて一瞬で死ねたらさぞ幸せだろうと思います。「人生の正解」を求めてめんどくさがりながらも走り続ける必要がなくなるからです。現代の若者の一人はここまで落ちぶれてるんですよおばあちゃん。ひどいでしょ。

この記事を読んで「こいつ何甘えたこと言うてんねん。意味わからん。なんで美大通ってんねん。死ねクソ」とか思う人がいるだろうけど、僕と違って意志がしっかりしているそういう人が本気で羨ましいし、そういう人の気持ちがマジで理解できない。かなり根本的なとこから違うんじゃないかとさえ思う。すごいね。僕みたいなやつのことはほっといて先に進んでおくれ。

時々、「ぐっさんは将来のこととかデザインのこととか結構考えててすごいね」とか褒めてくれる人もいます。すっごく嬉しい。「やった、やっぱりこれまでしてきたことは正解だった」と思える。でも褒めてくれてた人には残念だけど、蓋を空けてみたらその動機はこんなにクソみたいなものなんですよ。しかも、実は基本的にやる気のない矛盾した人間で、実際に自主制作とかあんまりしてないんですよ。全ては「自分を好きでいる」ためなんですよ。でも、このクソみたいな動機こそ山口という人間の結構大きい部分であり、僕のベースなんです。

何をかっこつけて言ってんのかしらねうひょひょ。

でももし、僕と似てる人が僕と同じで「おれほんとクソだなー!!」と思っている人がいれば、「大丈夫。おれも同じだよ。おれもクソだよ。でもスタートラインなんてどうでもいいじゃん。だから一緒に開き直って『正解』目指して自主制作なり課題なりがんばろう」と言います。

動機がなんであれ、『正解』はきっと人を幸せにすることだと思って邁進いたします。

作業する環境は「ちょっと不自由」がいい

こんばんは。眠くもないのに寝るの、やめようと思います。絶対寝過ぎるからです。多少寝不足なのが僕にはあってます。愚ストンです。あと今週の泣くな、はらちゃんの越前さんめっちゃ萌えた。愚ストンです。

部屋で作業するのが本当になかなかやる気が出ない愚ストンですが、外出先の喫茶店とかだと家でいるときよりもやる気が出たりします。やり始めるためのやる気スイッチの入れやすさと、スイッチ入った後の集中力において作業するのにいい環境というのを考えてみました。結論は「ちょっと不自由」がいいということです。具体的には、、

・家よりも喫茶店や図書館、電車の中(膝の上でパソコン)などがいい

誘惑などがないから。家にいると無意識的に誘惑に負けることをいいように脳内変換して実行しがち(「たまには息抜きも大事」など)。

・時間に制限があるといい

この図書館あと20分で閉店だ、などの時間制限があると時間を意識して作業できる。だらだらやらずに済む。いつまでにここまでやる!など自分との約束を作っても意識が弱いと続かないが、「閉店前」や「用事の前」など、「あと何分で動かないといけない」となるとそれまでにやるノルマにもやる気が出る。

・ちょっと空腹がいい

満腹だと消化器官に血が集中して頭が動かない、とかなんとか誰かが言ってたような気がするけどそんなの言われなくても実感できる。満腹よりもちょっと空腹の方がやる気出るし、集中力が持続する。そして集中し始めると空腹は忘れる。お腹が減りすぎて作業中も意識がお腹に行くようになったらささっと軽く食べよう。

・ちょっとだけ寒い、とかちょっとだけ暑いのがいい

快適な空調よりも、ちょっとだけ寒い、暑い方がやる気が出る。特に冬場はぬくぬくで気持ちいいと眠くなるので、部屋で作業する場合は暖房はつけたり消したりするなりして適度な寒さをキープ。タイピングに支障が出ない程度にひんやりさせておく。眠くならないし集中力も持ちやすい。

・監視役がそばにいる

友達と一緒に図書館で作業するなど、自分がしっかりやっているか見ていてくれる監視役がいればとてもいい。大学受験の受験勉強のときは学習塾の自習室に入り浸っていたが、あれはよく考えてみたら誘惑がないのがいいのではなくて、同じ目標に向けて頑張っているライバルがすぐそばで頑張っているという環境がよかった。自分も頑張らなくてはと思える環境を作れたらやる気も出る。大学生になった今では自習室といった都合よくライバルが集まる場所もないので、いっそ同じ悩みを抱えた友達に呼びかけて、「一人じゃやる気出ないから監視しあって各々頑張ろう会」など開いてみてはどうか。

とこんな感じです。

てなわけでこれから作業するよ。今日のブログはここまで。部屋まじ寒いよ。空腹ハンパないよ。

バイトすることについて

こんばんは。今5時間勤務から帰ってきて風呂入って洗濯して干してコーンフレークを食べようとしたら牛乳がなくてがっかりしたところのグストンです。

今日友達とバイトの話で意気投合して気持ちよかったです。というのも、

学生が遊ぶ金欲しさにバイトするのはかっこ悪くね!?

バイト一回してみなよとかすすめたり、バイト一回もしたことない人を若干バカにするのおかしくね!?バイトしてるからって偉くもなんともなくね!?

グループワークの会議を欠席するとき「バイトだから」って言ったら「じゃあ仕方ない」って許される感じ何アレ!?仕方なくなくね!?学生の本分はどっちよ!?

バイトしたらコミュニケーション能力つくとか言うけど、おれバイトしてないけどバイトしてるお前よりコミュニケーション能力ある自信ありまくりだよ!

生活費とか学費とかギリギリでバイトするならそりゃもう仕方ないよ!?でもぶっちゃけそうじゃない人多いでしょ!?そのくせにバイトしたことない人小バカにするとかグループワークの会議休んで平気な顔してるとかもうホントに信じらんない!!

ということですね…

1年の時から僕はこんなふうに思ってましたし、バイトを始めた今でも思ってます。

なんで僕が今バイト(ラーメン屋)しているのかというと、僕は1年の時から生活費や学費において金銭的にそんなに困ってなくて、真剣に打ち込んでいた学校のサークル(epa!)で忙しかったのでバイトなんてする気にもならなかったのですが、サークルも終わり、暇になり、遊ぶ金を親にねだったら「バイトもしてみい」と言われ、前々から周りの友達からも「バイト一回してみた方がいいよ」と言われていてもともとちょっとだけ興味があったのもあり、バイトすることにしたのです。家から近くてまかないも出て時給も悪くないということで今のところを選びました。

今、3ヶ月目です。もう研修期間も終わり、かなり慣れてきました。で、バイトやってみた今のところの感想はというと…

周りの友達が言っていたほどいいもんじゃない。思っていた通り。こんなもんかーって感じ。覚えさえすれば誰でもできる面白くもなんともない仕事を淡々とこなしていつも同じこと繰り返すことが僕は耐えられない。なんで第一志望の大学に受かってこんなことしてるんだおれ、ってなって耐えられない。コミュニケーション能力なんて微塵もつかない。てかもとからあるわ。店長よりも誰よりもおれコミュニケーション能力あるわ。ついたものといえば「かしこまりました」を早口で言うこととか「グリル」っていう鉄板系専用の洗剤はめちゃ強いから直接触ったら危ないよ!っていう豆知識とか女子トイレには男子トイレにはない特別なゴミ箱が個室内に設置されているという知識とかそんなん。超どーでもいい。

でも、やってよかったなとは思う。こんなもんかーってのが知れたから。だから、もういい。このバイトはやめようと思ってる。もう十分「バイトってどんなもんか知る」という当初の目的は達成した。将来は絶対飲食店で働きたくないなと思った。おれたちまだ学生なんだよ。未来を選べる若者なんだよ。親が自分の人生に投資してくれてる間にすべきことがあるだろうがよ。

ちなみに、おれはデザインの専門学校でTA(ティーチングアシスト)のバイトもしているんだけど、そっちは自分の目指す将来と繋がってるからいいと思うんだよ。そういうのは全然いいと思うんだよ。目的がお金じゃないからね。経験だからね。

ちなみにちなみに、いろいろ書いたけど実際のところ、遊ぶ金欲しさにバイトすることに関して、カッコ悪いなーとは思うけど、否定はしない。個人的な意見としてダサいとは思うけど、そういう生き方というか選択そのものを否定することはおれにはできない。そこまで「親から学費出してもらっている生活の有意義な過ごし方」についての考えが定まっているわけではない。

まあダサいとは思うわけだけど。

個性は実力の上にできると思う

こんばんは。夜の7時くらいから12時まで寝てそれからずっと起きてて今朝の4時で全く眠くないのでこのままオールする予定の昼夜逆転男、グストンです。

今日は「それは個性とは言わない、ただの不足だ」と思ったりすることがあるという話。これから言う個性というのは人間性の個性ではなくて能力や得意分野の話ね。「このアートディレクターは特に人の温もりや空気感といったものを表現するのが上手いなあ」とか、突出して得意なものに対して言う「個性」ね。

人って個性的なものが好きなもんでね。例えばテニスの王子様とか、人によって得意不得意がある。データやたらかき集めるやついたりパワータイプがいたり基礎がとにかくしっかりしてるやつがいたりする。漫画やゲームなどでは必ずキャラクターごとにそういう「個性」がある。その人だけにしかない特徴がある。この人はこれが得意だけどこれが不得意、でもあの人はそれが得意で逆にこれが不得意、みたいなのがはっきりあると、傍観者としてはとてもおもしろい。

 でも現実で考えた時に大事なのは、彼らは全員、そこそこデータは集めるし、そこそこパワーはあるし、そこそこ基礎はしっかりしているということ。つまり個性は必要最低限のオールラウンドの上に、特に突出しての自分だけの武器として持つものだということ。最初っから「パワータイプとかかっこいいからおれはそれでいこう」とかゲームみたいなこと考えてる人はなかなかうまくなれないはず。

 現実で多くの人が個性というものがとにかく好きで、すぐに「おれの個性はこれ」みたいなのを持ちたがるし持たせたがる。 

 例えばムサビはいろんな学科があり、それぞれ専攻しているものが違う。そこで、いろんな学科の人を集めて一つのものを作ったらそれぞれの個性が生きてすごいものができそう!!とか考える人がいるがこれは全く持って盲目的

に幻想的に個性を美化して見ているにすぎない。デザイン情報学科の人がパソコンのことならなんでも知ってると思ったら大間違いだし、空間演出デザイン学科の人が空間ならなんでもお手の物だと思ったら大間違いだし、視覚伝達デザイン学科の人がポスター作るの得意だと思ったら大間違い。ポスター作るのが上手いのは、「視デに属している人」ではなくて「グラフィックを勉強しててポスターとか作ったことある人」である。知識と経験は学科で一括りにはできない。

また、僕がepa!で学んだことを例に挙げると、例えば班分けがある。epa!はパフォーマンス班や舞台班など、7つの班に分かれて制作する。それぞれ自分たちの班に任せられている役割があるが、「これはあの班の担当分野だからおれたちにはわからない」と仕事を投げ出すようなことは絶対にしてはいけない。例えば印刷に詳しいパフォーマンス班のスタッフが、そこまで印刷に詳しくないメディア班の制作状況を把握していれば何かアドバイスできるときが来るかもしれない。メディア班はメディア班なんだから印刷に関してはおれよりも詳しいはず、と思い込むことの積み重ねで全体としての作品は残念なことになっていく。人の能力を盲目的に「個性」と呼び、それを過信してはならない。

 しつこく例をもうひとつだけ挙げると、ぼくが友達が自分のグラフィック作品の感想を求められて、その作品を見ていた時のこと。僕は「すべてにおいてまだまだ手数が足りない」と感じていた。しかし一緒にいた別の友達は「これはこれで◯◯さんらしさがあっていいんじゃない?変にプロっぽいのを目指すよりも◯◯さんの個性を大事にした方がいいと思う」と感想を述べた。僕はこの時まさに「個性って(笑)」と思った。その作品のどこにも個性はなかった。ぼくは「個性は実力の上にできるものだと思う。まずは最低限のレベルに達するべき」と正直な感想を述べた。

マンガやアニメでは焦点を当てて描くキャラが数人に限られ、その人たちに個性が与えられる。「炎タイプの能力者」は一人か、そのライバル的存在としての二人で十分だ。かぶっちゃいけない。しかし現実にはその分野で戦う人が何万人何十万人といて、その一人一人に個性もくそもない。みんな修行中である。ONE PIECEの世界で海軍のザコい一兵士の日常が描かれることはない。彼らは修行中で、個性がなく、描いた所で面白く無いからだ。個性があるのはせめて大佐以上になってからだ。大将ともなると能力も呼び名も個性的でめちゃ面白い。しかしザコい一兵士はこれに憧れて「アイスブロック!」とかモノマネしている暇はない。ザコ一兵士が「おれはパワータイプ!!」とか言った所でそれはパワー以外の能力の不足でしかないし、その自信満々のパワーすら大将のそれの足元にも及ばない。

修行中の者も、人間性にはもちろん素敵な個性があるのだろうが、こと能力に関しては個性などまだまだない。本当の個性は、実力がついてから誰かが後付けしてくれるものである。

卒展見て思ったこと-人の役に立つもの作りたい-

ご無沙汰してます。最近の廃人っぷりがブログの更新頻度に顕著に表れているグストンです。書かないこともまた記録です。つって。

今日友達と話してて出た話で、僕が「人の役に立つものを作りたい」という話。話して久しぶりに「あーそうだおれそう思ってたんだ」と思うこともあります。

デ情の卒制の話なんですが、デ情の卒制って基本なんでもありで、企画の提案でもいいし映像でもいいしデザイン論語る冊子でもいいし絵本でもいいし写真でもなんでもいいんです。そんな中、「ああおれ自分の卒制ではこんな感じのが作りたいなあ」とちょっとだけ思ったものが一個ありました。

鈴木 史彦先輩の卒業制作展示検索テーブル」というやつで、写真を撮らなかったことを後悔しながらどんなやつだったか説明すると、「デ情の卒展を見て周るのを快適にする卒制」だったんですね。デ情の卒展の受付の横に設置されていて、興味がある卒展をすぐに見つけられて、展示スペースへの行き方も表示してくれるというものでした。

僕がなんでこれいいなと思ったかというと、人の役に立っているからです。最初はピンと来ませんでした。なぜならこの作品の使命は卒展の数日間だけで、しかも「卒業製作」がそんな「おもしろくてちょっと便利だね」で終わってしまうようなものでいいのかとも思ったからです。しかし後々考えてみたら、そもそも何の役にも立たないし何が言いたいのかよくわからないし自己満足で終わっている(または満足さえできずに終わっている)卒業制作がたくさんある中で、数日間人の役に立ってちょっとおもしろがられたならそっちの方がずっといい、と思ったのです。この作品には存在意義が少なくとも感じられました。

僕はそもそも、人の役に立ちたい、という考えがかなり昔から脳みそにへばりついてるみたいです。大勢でカラオケに行けば、どうしても、自分が歌いたい歌ではなく、歌えばみんなが盛り上がってくれたり楽しんでくれると思った歌を入れてしまいますし、飲み会を開けば、どうすればみんなが楽しめるかよくよく考えますし、webデザインの専門学校でティーチングアシストのバイトをしたときはサービス残業しまくってバイト時間外も生徒の質問に答えたりします。今自分は人の役に立っているという実感が生きがいをもたらします。

何も僕は「卒展をより快適に楽しむツール」を2年後作りたいと思っているわけではなくて、「ひと目ですぐにそれのよさがわかり、尚且つ実用的なもの」を作りたいのです。例えば「これ、普通にお金払うから欲しいわ」と思えるような冊子だとか、「こんなwebサイトもしほんとにあったら普通に使うわ便利そう」とか思えるようなものとかです。また媒体はものでなくても、企画の提案などでも「これはいいな」と思えるようなものならいいと思います。

別の視点から話せば、ぼくは「これの何がどういいのかよくわからない芸術作品」とかに見向きもしません。感性とやらが乏しいのかもしれません。僕は「これの何がどういいか一発で誰にでもわかる」ものを作りたいです。わかりやすいのは好きです。

でもそれが一番むずかしいんだと思います。

課題発見という伝説の課題がデ情1年のときにありました。5,6人のグループワークで、一日3時間で1ヶ月かけてやるんですが、課題は「仮想の会社を設立し、社会の問題点を見つけ、それを解決しなさい」というものです。条件はほんとにそれだけなんです。「社会の問題点」に制限は全くなく、ささいなことから深刻で大きな問題までなんでもありです。ムサビ内の食堂をより使いやすくする企画を提案するグループもあれば、日本中の通勤をより快適にするためのアプリを提案するグループもあれば、なんでもありです。ただし企画は最終プレゼンの前に学科の教授数人からGOサインをもらわなければなりません。

そして、GOサインをもらうために教授に企画を説明する段階で、実にシビアな要求を教授たちはしてくるのです。「それは資金面で現実的じゃない」とか「それは君たちが今年やったとして来年からは誰が運営するの?」とか「そのサービス、もうあるよ」とかやたら現実的なことを平気で言ってきます。「実際にやるわけじゃなし、課題なんだから勘弁してよ」と嘆きたくなりますが、この課題で「便利であふれるこの時代に自分にしかできないことをするは並大抵のことではない」ということを学びました。必死になって「今の社会で、なんかおれにしかできないことないかな!?」と問題を探し続け、必死になってその解決方法を探さないと、「もう誰かがやってる」という壁にぶち当たります。

たくさん勉強して、いろんなサービスや便利なものなどの事例を知って、たくさんの知識をつけて、社会をよく見て、自分に解決できそうな問題点を見つけて、それに向かって全力で出来る限りを尽くし、その結果は誰にでもひと目でその意味や便利さや言いたいことがわかるほどシンプルなものに落としこみ、実際に人の役に立つ。そんな卒業制作ができたら、というか卒制だけと言わずそんなものづくりを生きてる間に作っていけたらこれ以上のことはないと思います。

自分の行動の判断基準

こんばんは。3週間くらいやっているskype英会話で、「What means (わからない英単語)?」と「Sorry?(もういっかい言って)」を繰り返してたらなんとかなるということを学んだグストんです。

最近僕の中で大事にしている行動基準があります。それは

「嫌いだと思ったらやめろ。めんどくさいと思ったらやれ。」

ということです。こないだTwitterで誰かが言ってたことの受け売りのうろ覚えなんですが、これが結構気に入ってます。

僕が最近やっているスカイプ英会話は、毎日何時から何時までとか決まってなくて、一回終わるごとに次の回を予約しないといけないのですが、今日の分をまだ予約してなかったとき、「今日だるいなーさぼっちゃおっかなー」と魔が差しました。ここで、自分に問いかけました。

「自分は面倒臭がっているだけなのか、それとも心の底からやりたくないと思っているのか」

心の中とは言えこういう風に明確な自問をすると意義のある自問自答ができたりします。

「はい。おれは面倒臭がっているだけです。どうせここ踏ん張ってちゃんと授業受けたら後々、踏ん張ってよかったスッキリてなるのは知ってます」

と正直に答えて、予約のボタンを押しました。

こういった「自分の次の行動を左右する問いかけ」というのはとても重要です。もうひとつ例を挙げると、僕は、高校1,2年生の時、大学受験よりも来年度、英数クラスに入れるかどうかを重要視していました。死ぬほど英数クラスに入りたかったのです。そして、放課後に「今日このまま帰ろっかなーそれとも自習してから帰ろっかなー」と悩んだときや、風呂あがりに「今日このまま寝よっかなーそれとも1時間勉強してから寝よっかなー」と考えたときは、次のように自問自答していました。

「ここで勉強したら来年確実に英数クラスに入れる。しかしここで勉強せずに楽な方をとったら来年確実に一般クラスになる」と。

そして常に勉強する選択肢を選び続けて、見事3年間念願の英数クラスに入ることができたのです。我ながらこの時代の自分はかっこいいです。見習います。

いろんな場面で強い効力を発揮する(自分を好きな自分になれる方向へ引っ張っていける)自問自答をたくさん用意しておくと僕自身は幸せになれるんだろうなと思います。

生活のあらゆる場面で大きいものも小さいものもいろいろな後悔というのがたくさんあります。二度寝、遅刻、提出遅れ、英数クラスに入れなかった、憧れの大学に入れなかった、etc…

それらすべて起きる前に、「フラグ」が立っていたんだと思います。「あそこで誘惑に負けなければ…」と後になって思う場面があったはずです。そこが自問自答すべきだった場所、そしてその自問自答で自分に打ち勝つべきだった場所なんでしょう。これらに気づくことはやってみれば案外簡単で、「あ、今、岐路に立っているかもしれない」と思ったら、楽じゃない方、めんどくさい方を選べば大抵正解です。

楽じゃない方を選べば正解だなんて世も末だと嘆きたくなりますが、本当はぼく自身が、楽じゃない=幸せ、みたいな方程式を確信している真性のMなので仕方ありません。楽じゃなくても、本気で課題取り組むことは楽しいのを本当は知っています。

本当は知っている自分に嘘は通りません。やらないのはめんどくさいだけだと本当は気づいているからこそ、楽な方を選んだことに対してのモヤモヤがとれないのです。後悔しない選択を少しでも多くして行きたい今日このごろです。