月別アーカイブ: 2013年5月

沸き起こる感情には実は意志がある

ご無沙汰しております。友達に「おれぐっさんのブログ嫌いだわ」と言われつつも咄嗟に「おれ別に構わんし」「別にいいし」と全力で強がったため精神的ダメージを最小限に抑えられたガストンです。

人の感情というのは、おそらく人生を通して楽しめる、めちゃんこ面白い研究テーマの一つかと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。僕は感情のコントロールに関していくつか思うところがあります。その中の一つに「人は自ら抱く感情を意識的にあるいは無意識的にある程度誘導している」ということです。

結論から言えば人は、「こういう出来事があったからこういう感情になっている」のではなく、「こういう出来事があったときは自分はこういう感情になる「はず」だ(または、こういう感情になる「べき」だ」、こういう感情に「なった方がよい」)といった予測を立ててある程度自分の感情を誘導しているということです。

なぜなら、人は論理的に感情的になっているからです。アホを見るような目で僕を見ないで下さい。

矛盾しているようでこれは当たり前のことです。

例えば、僕達は砂漠に咲いた一輪の花を見て感動したり、友達の心なき言葉を聞いて腹が立ったりすることがあります。

これらの感情は心の内側から沸き起こるものですが、その前にまず起こった出来事を目で見たり耳で聞いたりして理解する必要があります。「砂漠は乾燥していて植物が成長しにくい」という予備知識や、言語を理解する能力が無ければ例に出したような場面に遭遇しても感情は沸き起こりません。「人肌の温もりを感じることによる直感的な安心感」などの例外はあれど、当たり前のことですが、「つい感情的になってしまって理性を失う」以前に、理性によって感情の大部分は形成されるのです。目の前で起こった出来事を頭で理解してからそれに相応しい感情が沸き起こるのです。

わかりやすい例を出せば、ドラマなどでよくある「後になってわかったけどあの時の彼のあの冷たい態度は実は私を守るためにやっていたのでしたー!!」みたいな展開は、明らかに「気づき(知識)」をきっかけに感情が沸き起こっています。

つまり感情の大部分は、体の内側から沸き起こっているように見えて実は目や耳、肌などの五感から入ってきて、脳というフィルターを一度通っていると言えます。

そしてこの脳というフィルターが、その後沸き起こる感情を大きく左右します。

例えばさっきの例の続きですが、「彼」の行為の真意に気づいた後に「なのに私ったらあのとき彼にあんなひどいことを言ってしまってああごめんなさいごめんなさい!!」というシーンが安易に予想されます。ちなみに僕の頭に居るのは石原さとみです。この時石原さとみは目の前で起こった「出来事分」悲しむだけで終わらず、「そんな彼に対してこの私ときたら」と思い返すことによって「二次感情」が沸き起こっています。これは「受け取り方」というやつです。

感情は「出来事の理解」+「受け取り方による理解」の二部構成で成り立っています。「受け取り方」による二次感情の程度は当然、人それぞれです。

例えば友達に「今のお前はまだまだ努力が足りないよ」と言われた時、「何をエラソーに!!ぷんぷん!!」となる人と「あいつはおれのこと想って言ってくれているんだ…よーしがんばろう!!」となる人とがいると思います。このように、同じ出来事であっても、受け取り方によって起こる感情は明らかに違ったものになります。

言わずもがな、「出来事の理解」よりも「受け取り方による理解」の方がはるかに大きくその後の感情に影響します。出来事の理解に関しては人の五感や言語能力、一般的な知識を基に構成されますが、受け取り方による理解に関してはその人の人となりや性格、そしてどう受け取りたいか、受け取った後どうなりたいかという願望により構成されているからです。

自分がどんな感情になりたいかの願望なんていちいち考えないよ!と思うかもしれませんが、誰しも経験があるはずです。悲劇のヒロインを演じるというのがそのわかりやすい例です。

例えばある女の子が友達にこんな愚痴をこぼしたとします。

「彼があんなひどいことを言った!

私は彼のためにこんなに尽くしているのに!」

と。ここでは

「私はこんなに彼のために尽くしているのに」が「受け取り方による理解」です。

彼女はもしかしたら、悲劇のヒロインを演じたいという気持ちが多少なりともあって、彼を悪者にして自分には非がないと自分に言い聞かせたいのかもしれません。

友達の愚痴を聞いていたら、「それ、相手も相手だけどお前も悪くない?」とツッコみたくなるという経験は誰にでもあると思います(ちなみに個人的な経験に基づけばこういう場合、実際にツッコんでみると全くの図星といった反応をされるか、やけになって余計に話の内容が感情的なものになっていくかのどちらかです)。

受け取り方による理解に多少なりの願望が含まれることは悲劇のヒロインの例に限らず、多くの場面で起こりえます。

例えば学校の先生に怒られた時に、それが正論であると心の底ではわかっているが、認めたくない故に先生に対して理不尽にも怒りの感情を抱いたり、あるいは、クラスの友達に避けられていることを認めたくなくて、自分はクラスに溶け込めていると思い込もうとしたり。これらは多くの場合自分を守るために無意識的に行われます。

本当に無意識的に感情をある方向へ持っていくようにしているときは、脳内で出来事を整理しようとする時点で、ドラマでヒロインが使っているのを聞いたことがある言葉を演技も含めて脳内再生してみたり、本当は関係性のない過去のストーリーを持ってきたりと様々な手法をとります。人が自身を守るため無意識的に行われる行為は想像以上に巧妙であると、僕は過去の自分を思い出して思います。

感情は自分の気持ちを表現するために起こるのではなく、整理するために起こります。そして整理する時には、自分にとって都合のいいように整理してしまうものです。

このように、人の感情は、脳というフィルターを通して理解され、さらに場合によっては無意識的に本心に基づき自分に都合のいいように整理されてからようやく起こると言えます。

自分でどれほど自分の本心に気づいているか、気づいていないかはまちまちです。僕自身、小学生だったの頃の自分を思い返すと、自分の非を認めたくなくて自分を叱った先生を平気で非難したりしていました。その時は、自分の非を本心では認めているからこそこんなにイライラするのだ、なんてことには全く気づきませんでした。だから今も、自分の感情に偽りはないか、言い訳しているだけなんじゃないか、などと常に客観視しようと試みてはいますが、時にはたから見ればそれが全くできていないということは大いにあるのだろうと思います。

さて、最後にこれだけは書かねば終われないことがあります。

無意識的に本心に基づき自分に都合のいいように整理されてから感情が起こると書いておいて今更ですが、人が人の気持ちを理解しようとするとき忘れがちなのは、そもそも、人の本心そのものが論理的にできていないことがままあるということです。

今までここで出した例はどれも「本心の真相」を書いてしまいましたが、いつもこうとは限りません。「こう言いつつも本当はこう思っている」などといった明快な真相が1つ用意されているわけではありません。ですが人は基本的に、物事をできるだけ単純化して理解しようとする傾向があるため、他人に1つの「本心」があると思い込みます。「本当はどう思っているの?」という問いに誰しも答えを持ち合わせているとついつい思い込んでしまいます。ドラマに登場するほとんどの人物には、読み手がストーリーを追いやすくするために、最終的な「本心」が用意されますが、現実では「こういう気持ちもあるし、こういう気持ちもある」というどっちつかずではっきりしないものである場合が、案外多いものだと思います。

それでも人は人の気持ちを少しでも理解しようとするから、人の感情は、やっぱり人生を通して楽しめる、めちゃんこ面白い研究テーマの一つかと思います。

1年生に捧ぐ「サークルの選び方」

こんにちは。ムサビの図書館の本棚壁の天井近くの本入ってないところに本をシュートしたいです。ガストンです。

1年生に捧ぐ「サークルの選び方」

◯第一部「サークルはとりあえず行ってから考えろ」

こないだデ情の新歓に行って来ました。2次回まで参加してデ情の1、2年生にたっぷり先輩づらして偉そうに喋り倒してご満悦のガストンでしたが、そこで言ったことをここでも1年生または2年生に向けて。

色んな子にこういう風に聞かれました。「サークルなんですけど、あそことあそこでどっちにしようか迷ってて、ただバイトもしてるんで両立しようと思ったらやっぱりあそこは忙しそうだから厳しいですよねー」と。

で、僕は「じゃあどっちもとりあえず入ってみてやっぱ2つのサークルを掛け持つのは無理だと感じたらそこでどっちかのサークルやめればいい」と言いました。

絶対そうした方がいい。

忙しさとかそんなん自分にとっての実感が一番大事なんだからいくら先輩に聞いた所で仕方がない。一回入ってみて雰囲気とか忙しさとかゆるさとか色々感じてみることが大事。で、「やっぱ無理だった」と思ったらそこで片方やめればいい。サークル途中から来なくなる人なんてどこのサークルにもざらにいるし、自分にあった居場所を探すためにいろんなものに挑戦することは全然恥ずかしいことじゃない。サークル途中でやめたって誰かに嫌な目で見られることは(たぶん)ないし、あったとしても、ムサビの学生の多くが「ムサビ来てそんな中学生みたいなことしてんのはナンセンスだぜ」って考え持ってると思うから心配しなくていい。

それから、自分自身がサークルに求めているものは少なからず入った後に変わってくるから入る前の自分の意見なんてやわやわのひょろひょろということを覚えておくべし。例えばバドミントンしたくてバドミントンサークル(ムサバド)に入ったらそこでできた友達が今までの人生で会ったことないくらい気の合うやつでバドよりもそいつとデザインについて語る方が楽しくなっちゃった!一生の友達に巡り会えたぜ!とか、最初は踊りたくてパフォーマンス団体に入ったけどやってるうちに自分は事務や会計の方がパフォーマンスよりも楽しいし向いてるということに気づいちゃって気がついたらパフォーマンス団体の事務担当になってたなんてことも起こりうる。サークルに入って新しい自分発見、なんてことが本当に起こるんだ。大学にはその辺に人生規模の儲けもんがごろごろしてるんだ。

それをだなお前、「もし忙しくて途中でやめちゃったときに気まずい」なんていう5年後には確実に忘れているであろうどーでもいいことを避けるためにその可能性を最初っから投げ捨てることがどんだけもったいないか!!!ええか、人生がびっくりするぐらいおもろくなりだす瞬間ちゅうもんがあんねん!それは積極性と行動力だけが引っ張ってくんねん!あと運。でもその運も、積極性と行動力が引っ張ってくんねん!だから行きたいサークルの見学行け。課外講座とか展示とかなんでもそうやけど。思いついたら熱が冷める前にできるだけ早く行け。熱が出たら「行く」以外なんも考えるな。

以上。第一部「サークルはとりあえず行ってから考えろ」の巻でした。

5分の休憩をアグレッシブに挟んだあとに第二部「忙しいという言葉の意味がよくわかりません」にお進み下さい。

1年生に捧ぐ「サークルの選び方」

◯第二部「忙しいという言葉の意味がよくわかりまてん」

おれ思うんじゃけどね。忙しいっていう言葉は抽象的すぎて言い訳にしか聞こえないよね。言い訳としては便利だからおれもよく使うけどね←

例えば「サークル2つ掛け持ちするのは忙しくて大変そうだー」ってよく言うけど、そのサークルの活動日が綺麗にずれてたら全然問題ないよね。

「いや!それだと毎日サークルになっちゃって課題やる時間なくなっちゃうんですよ!」

ってよく言うけど、それは自分自身の課題をこなす効率の良さと夜寝ずに課題こなす体力によるよね。

おれは別にサークルいっぱい入れとか全然言わないし思いもしないし、むしろ大抵のサークルが「息抜き」としてちょうどいいようなもんでちらほら「ガチな」サークルが中にはあるくらいで、サークルを自分の学生生活の中でどういう位置づけにするのかは自分で決めることを勧めるけど、おれがここで言いたいのはサークル選ぶときも履修考えるときも学外活動考えるときもその他いつでも、「忙しい」って言葉を使う時って大抵「なにがどう忙しいか」見えてないことないですか?ってことです。

僕は時折、周りから「色んなことをしてて忙しそう」と思われているらしく、「ちゃんと寝てますか?」と時々聞かれます。epa!の総演出やってたときもよく言われました。でもおれ、全然忙しくない自覚があります。だって体力もってるもん。第一、何かに打ち込んでいる人にとったら、「今日何時間寝るか」よりも「今日何時間寝たとして〆切に間に合うか」が大事なわけですよ。つまり常に〆切なり何かを意識している。「眠いから寝る」なんて言語道断です。

忙しければ忙しい程一週間のスケジュールが細かくなります。一日のスケジュールも細かくなります。忙しくなってくると「ここで電車に乗ってる間にこの作業しよう」とか出てきます。いつもはぼーっとしてた時間が作業に割り当てられます。「忙しくて時間がないだってぇ!?時間とは作るものだ!!!」というがんこオヤジの言葉の意味はこういうことです。無茶なんてこれっぽっちも言ってません。

ちと偉そうに書きましたが、「自分から全部動くこと」と「初めは無理をすること」を推奨します。後悔のないように!!

清里合宿感想

こんばんは。昔、給食で出たライチがマズすぎて吐いた覚えがあります。ガストンです。

4月28、29日とデ情の清里合宿に行って来ました。デ情の3,4年が参加できる合宿で、教授の方々も参加してみんなでバーベキューと飲み会をする合宿です。3年次編入生と仲良くなることが合宿の目的ですが、教授の方々と飲める少ない機会というのも清里合宿の魅力のひとつです。で、今日はその感想。

清里合宿、鬼クソ楽しかった。それはもともとバーベキューや飲み会が大好きなガストンには当たり前のことですが、いつもの飲み会とは違ったなーと感じたことが主に2つ。

・教授方とお酒が入った状態で話せる!

教授とサシで話すというのは研究室へおじゃますればできることで、僕も数回経験がありますが、お酒が入っているとなるといつもは話せないことが話せます。先生方はさすがと言いますか、酔っ払っていつもよりはっちゃけているようには見えませんでしたが、何せこっちは酔っ払って楽しくなっちゃってる状態で先生と話すわけですから、本音が言いやすい。いつもならちょっとブレーキかけたくなることも言えちゃう。

何が言いたいかって言うと、大好きな教授に「おれ先生みたいになりたいんすよ!!!」って言えて僕は嬉しかったです。ハイ、それだけです。お酒って素晴らしいですね。もちろん酔っ払っているからといって教授には失礼のないように注意しましょう。

・同級生とバトれる!

これは普段の飲み会でもよっぽど盛り上がればもしかしたらまたできるのかな、と思いましたが、僕は清里合宿で生まれて初めて「同級生とバトる(討論する)」ということをしました。自分のやりたいことやいつも思っていることについて、いつもは口にしないようなことを、清里合宿ではたくさん言えました。なんてったって自分のやりたいことについて教授と話したあとなので怖いものがなくなってるわけですね。「ドン引きされてもめんどくさがられてもいいから言いたいこと言おう!!」という気持がどんどん盛り上がってるわけです。周りはデ情ばっかりということもあって同じ将来を目指している友達もいるわけですから将来の話とか特に盛り上がりやすいです。

それに、3年生にもなるとみんななんとなく自分の意見ややりたいことに対する熱を持ち始めている気がします。今まで1,2年の間は教授と話す機会があっても何を話したらいいのかわからないことが多かったわけですが、3年にもなると話したいことが徐々に増えてきます。そうなると話したいことはどんどん話さないともったいない。清里合宿ではもうものすごい量のコアな話をしました。将来やりたいこととか、自分がどんな風に生きていきたいかとか、自分の得意なこと、不得意なことは何かとかとか…

そういう話がたくさんできた貴重な一晩でした。

清里合宿は、教授相手にしても友達相手にしても「熱く語る」のに最適な合宿でした。今までで一番楽しい飲み会でした。幹事をしてくださった先輩方、ありがとうございました。僕と話してくれた先生方、ありがとうございました。