月別アーカイブ: 2013年8月

【ネタバレあり】劇団四季のリトルマーメイド見てきた

※ネタバレありです。ご注意ください。

劇団四季のリトルマーメイドを見てきた。2014年12月末までどの席も予約がいっぱいだった中、ポツンと一人分だけ空いている時間があったので入れた。s席だった気がする。1階のちょうど劇場の真ん中あたりの席で見た。

劇団四季のディズニー作品は今までライオンキングと美女と野獣を見たことがあるが、いつも僕は脚本の変更点を最も注目している。リトルマーメイドは1年前くらいにDVDで久しぶりに見たくらいで、ストーリーも細かい部分まで覚えていなかったが、大きく脚本が変えられていた。美女と野獣では馬のフィリップがいなくなっていたが、それ以上の変更ぶりだった。

巨大化したアースラをエリック王子が倒すシーンがない。魔法の貝(壊すとアースラが死ぬという設定)をアリエルが壊して死ぬ。変更した理由はやはり、巨大化したアースラを海上で船で激突して倒す、というのが舞台上でやるのはちゃちく見えてしまうからだろうか。実際、アニメの方でもあのエリック王子がアースラを倒すシーンは、(あ、これで終わり?アースラ弱っ)と思ってしまった。

だがちゃちく見せないようにする工夫も、劇団四季ならいくらかできるように思える、、、

あと見てない人が一番気になるであろう「人魚の脚」問題だが、これには驚かされた。アリエルやトリトン王は頻繁にワイヤーで空中を動いていたが、みんながみんなずっとワイヤーで動くわけではない。他の6人のお姉さんたちなど他のキャラクターは普通に歩いていた。

しかし見事に人魚らしさを演出していた。脚の衣装はもちろんつながっていて、脚をちょこちょこと動かし小股で移動する。つま先あたりから伸びた布を常に手に持ちそれをひらひらさせ、下半身まわりの衣装のボリュームが全体的に増え、ゆらゆらゆれている。とにかく「脚が2本」には全く見えなかった。

そして海の世界を演出する上で大きな役割をしていたのが上半身の動かし方だ。
カニのセバスチャンを除いて、ほぼ全ての魚のキャラクターが、舞台上にいる間は常に上半身を、というか全身をゆらゆら動かしている。人魚が前に向かって泳ぐ時のような、全身を波打たせるような動きだ。これをずーっとしている。決して静止しない。

劇団四季のキャッツを見たときに似た感動を覚えた。キャッツで全キャラクターが常に猫らしさを感じる仕草をし続けているように、ほぼ全員が常にあの動きをすることによって舞台上が海であるように見せていた。あの演出は見事だと感じた。

あと、ミュージカルシーンがアニメに比べると倍以上の数あった気がする。中には盛り上がる曲もいくつかあって、ミュージカルとして全体のボリュームを増す役割をしっかり果たしていた。

総じてやっぱりとっても良かった。劇団四季もディズニーも大好き。次見るとしたらもっと近くで見たい。前から5列以内で見たい。

ただ、劇団四季の発声はやっぱり声室に特徴が薄いですな…

セバスチャンもフランダーもカモメのスカットルも、みんな同じ声に聞こえた。

セバスチャンの声はもっとおじいちゃんっぽいあの声だろ~!と思った。

美女と野獣のガストンとルフウも、声質がディズニーアニメのそれと全く違っているのを聞いた瞬間、がっかりした。

やはりセリフがはっきり伝わるよう、はきはきした発声にするために特徴的な声質(たとえばルフウの鼻にかかった声など)を犠牲にしているのだとしたら、セリフなんてだいたい覚えてるから仮に聞こえなくてもいいじゃないと思う僕にしてみれば残念だ。あの声が聞きたいんだ。ライオンキングのティモンとプンバァはアニメに近い声でできてたのに…

セバスチャンいっそおれにやらせてくれればいいのに…←

批判バッカは恥を知れ

こんにちは!!進撃の巨人にはまりすぎてうっかり最新巻の11巻を買ってしまいました!!あの漫画は、巨人もいいんだけど、人間の中身に対するツッコミ(「お前そんなこと言ってほんとは自分が一番かわいいと思ってんだろ?」みたいなやつ)がキレッキレです!!ぐさっときます!!ごっつおもろいっす!!ガストンです!!

1.生産性のない批判をする人っていると思うんス。

批判することと愚痴をこぼすことと何かを嘆くことは何一つ生み出さない行為だということを常々思っていましてね。なんか僕こんな記事ばっかですね。今日地元のお祭りに行ってきました〜!!みたいなブログっぽい記事全然書いてないっすね。まいいや。

多くの日本人に見られる傾向だと思うんすけど、第三者が首をつっこんで、誰かのちょっとした抜け目や落ち度を見つけてはみんなでに一緒になってやいのやいのと批判する。芸能人のスキャンダルとかはその典型的な例だと思うけど、身近な例で言えば「教授の教え方の下手くそさ」とか「クラスのアイツの空気の読めなさ」とかさえその一種だと思うんすよ!誰かのだめなところを叩くという行為は「みんなでやれば怖くない」らしく、誰かが言い出した途端に自分も言いやすくなる。乗っかるだけだからね。

例えば教授の教え方の下手くそさを学生が教授の見てないとこでいくら議論しようと何も変わらないでしょ?誰かの空気の読めなさをみんなで愚痴ったところで何も変わらないでしょ?むしろいじめに発展しそうで怖いし、そんな小学生あるいは小学生みたいなことを未だにやってる主婦のおばさん方みたいな行為やめなされ。ちなみに「複数人による中身のない行為によって誰かが傷つく」ことをいじめといいます。

少々脱線しました。もっというと、僕は1年前、ある舞台制作団体でトップの役職についていました。舞台の脚本と演出を担当し、80人のスタッフの顔と名前を覚え、常に全員から意見を集め、批判されるときはサンドバッグになっていました。舞台の最終決定権をもつ人間が舞台に関して素人だった場合、舞台をよくするために、全員から意見を集めて取捨選択することが重要だと考えていました。

そんな中でも生産性のない批判をする人は少なからずいました。もちろん、そうでない人もいました。というか80人中、事務係などを除いてほぼ全員が舞台を作ることに関わるのですから、みんな何かしら意見は持ってるわけです。そこに生産性があるかないかの違いだけです。

2.では批判、愚痴、嘆きに生産性があるかないかの違いはどこから生まれるのでしょうか?

それは、「どこまで向き合えるか」です。要はみんな、めんどくさいんです。意見があって、それをトップの人に言うのは簡単だけど、そこから議論に発展したとき、その議論に何時間かけられるか。作業の合間の休み時間に話し込み、休み時間で終わらず放課後個人的に会って話し込み、それでも終わらず夕ごはんを一緒に食べながら話し込み、それでも終わらずお互いの同意が得られれば泊まりこみで会議もする。それでも終わらず、そんなことを何日も続ける。会うことに時間が避けないときは長文メールや電話のやりとりを長時間する。これが「向き合う」ということです。

実際に、何日間もうちに泊まりこみ、会議を一緒に重ねてくれた仲間も数人いました。その人たちは、演出に大して随分不満を持っていて、こんな舞台は作りたくないと思っていて、だから変えようと思って、トップにいる僕と向き合ったのです。こいつ1人に任せてたんじゃダメだと思ったのでしょう。どんなにめんどくさくても、何十時間と会議を重ねたのです。実際に演出は大きく変わり、他の「演出に不満はあるけどそのために何十時間も割くことはできない」と思っていた多くの人たちからも「変わってよくなった」という”評価”を頂きました。ま、彼らが変えたわけじゃないんですけどね。

何十時間と時間を割いて僕と向き合った人は、実際に変えたわけです。すごくないすか。変えたんスよ。変える権力をもつ人間の意見を変えさせて、自分がいいと思う方向に少しでも近づけたわけです。すごくないすか。

今、僕は自分が所属していた舞台制作団体を例に出しましたが、批判、愚痴、嘆きばっかりする人たちに生産性があるかないかの分かれ目は「向き合う意思があるかどうか」だということは、「教授の教え方の下手くそさ」とか「クラスのアイツの空気の読めなさ」とかを議論する際についても同じです。

批判している相手がどんなにダメか、どんなにでくのぼうか、どこがどうダメなのかなんてどうでもいいんです。僕が泊まりこみでスタッフと演出会議を重ねていたときにそんな話は一切しませんでした。生産性がないからです。大事なのは「じゃあどうすればいいか」です。

3.ではなぜ向き合う気力のない生産性のない批判ばかりする人たちは、それを続けるのか。

なぜ「誰のどこがどうダメ」かばかり話し、「じゃあどうすればいいか」をあまり話さないのか。話したとしても、それを当事者に伝えないのか。それじゃ何も変わらないとわかりながらも生産性のない会話を重ねるのか。

なぜならそこに自己満足という生産性があるからだ。結局、「言うだけ言って満足」な人が多い。嘆いて、特に「おれもそう思う」と言ってくれそうな人に対して嘆いて、同意を得ることによって「ほらやっぱり僕の言ってることは間違ってない」という安心が欲しい。自分の意見に賛同してくれる人たち同士が群がって安心を得る。いじめっ子が集団になっていじめるのと理屈は同じだ。だがこれじゃ何も変わらない。

何かを変えようとしたければそこに風穴をあけて自分たちにない意見を持つ人間の声に耳を傾けなくてはならない。それがどんなにそれっぽくて、論理的で、的を射ていて、今まで築きあげてきた自分の中にある確信と安心を揺らがされるようなものであっても、言っている内容だけを客観視して間違っていないと思ったらそれに賛同し、自分の今までの意見を切り捨てる。議論とはそういうものだ。

4.ちなみに、日本人全体には「向き合うと負け」「行動に起こすと負け」な風潮が見られます。

誰もが知っているように日本人は空気を重んじます。「こういうことするとこう思われるよね」という観察力が非常に重要で、学校でこれを学ばず勉強ばかりしていた陰キャラと呼ばれる人が大学で「コミュ力」のある人達に対して言葉にならない敗北感を思い知らされるということが多くあるのは事実です。観察力が陰ながら重要視されるのは就職後も一生、日本にいる限り同じです。

そして空気を読んでいると、「大多数の一般論と異なる意見は公言しない方が身のためだ」ということがすぐにわかります。「10人いて、9人と1人で意見がわかれている」という状況をこの国ではよしとしていません。個人の意見よりも場の空気が尊重されています。それが当たり前すぎて、誰もが「こう思っているのは自分だけ?ならここで言うのはやめとこう」という自己防衛の技を身につけています。そういう場合は別の場所で発言し、同意を得て、周りから固めていくのがこの国での”王道”だと僕は思っています。文化そのものに反対して嘆いていても実際には何も変わりません。

とにかく批判されることを恐れてみんな一般論を口にし、自分で考えて思う自分の意見というものを持たない。持っても言わない。そうしてみんな、ツッコミどころがない記事、すなわち何も自分の意見を語っていない記事を書くようになる。例えば、「今日地元のお祭りに行ってきました〜!!」のように。(←進撃のガストン今日もキレッキレです!!!!)

お前そのメモどうすんの

こんにちは!今電車だよ!目の前の席は7人席なのに1人1人が微妙な間を空けて座ってるもんだから6人しか座ってないのにおれが座れないよ!ちょっと先に座ってただけの一人一人が甘い蜜を吸ってるせいで座れたはずのもう一人が座れないよ!まるでこの世の縮図だや!かと言って「詰めて座って頂けますか」なんて言う勇気は後からきたおれにはないよ!言えば座れるのに!空気に負けてどこかで遠慮してるんだね!まるでこの世の縮図だや!ガストンです!

授業とか公演とか講義とかあるじゃん

先生が前で喋ってたりするよね

そんとき、ノート広げてペン持って聞いてる人は多いよね。てか真面目に聞いてる人は大抵そうしてるよね。

真面目に聞いてるけど机の上に何も広げていない人は少ない。

しかし、授業や特別講義などで先生が話す内容をメモる、という行為はどれだけ有効なのか疑問だ。

みんな授業や講義(ここでは、誰かが話す講義型を言ってる。参加型とか実習とかじゃなく)でとったノートってそのあとどうしてんの?

おれ今大学3年で、ノートとるのって結構バカバカしいなと思ってる。なぜか。

1年のときは真面目にノートとってました。例えば、講義系の科目は週に5科目とってた。生物学と心理学とメディア芸術論と美術解剖学と、、まあそんな感じ。

ノートを授業ごとに1冊ずつ、全部で5冊買って、毎日カバンから出し入れするのもめんどいから常に5冊持ってた。

でも、はじめの頃、おれがノートをとろうと思った理由は特にないんだよ。期末のテストで点をとって単位をもらうため、とかじゃなかった。はじめはテストのことなんか知らなかったから。かといって「へえー!おもろいこと聞いた!制作のアイデアに使えそうだ!あとで思い返せるようメモっとこう!」なんて気持ちもなかった。

そう、おれは何かの目的があってノートをとってたわけじゃなかった。「そういうもんでしょ?」と思ってとってたわけだ。先生が前で喋ってる。これは授業。ここは教室。ノートをとろう。
まさに小学校で習ったテンプレートに則っただけだ。体が覚えてた通りにしただけだ。

中学高校の頃は先生が「ここテストでるぞ」とか言ってくれながら授業してたから、ノートをとる意味はあった。記憶媒体として十分に機能してたといえる。

しかし大学で、生物学のノートをとりながらおれはふと思った。
「なんでおれノートとってんだろ。先生はテストにでるぞなんて言ってないのに。見たところ、大学というのはいい加減な場所で、高校のときほどテスト勉強しなくても単位も成績もとれるっぽいし」

ああなんて不真面目な学生なんだろう。いやでもこれはだってこうなるだろ。みんなも感じたろ。

こりゃ、ノートなんてとらなくても大丈夫そうだなと思った。
思ったけど、しばらくは「念のため」とり続けた。「ノート提出」とかあるかもしれない。テストが実は難しくて、ノート持ち込み可とかかもしれない。一応、とっとこう。

というわけで大学でもノートはとり続けた。1年の前期、後期が終わってわかったことは、やっぱりノートはとらなくても多くの授業で単位はとれる、ということだった。テストにノート持ち込み可で、ノートとってないとやばい授業なんかもちらほらあるが。

で、大学2年からは、特に必要だと思わなければノートをとらないことにして今に至る。今では授業ノートなんて一冊も持っていない。

そもそも、「メモっときたい」と思ってもいないのに「念のため」とか「一応」とかって理由でメモをとるのは好きじゃなかった。

そんでね、最近、部屋を片付けてたらね、出てきたわな大学1年ときとってたノート。見るわな。懐かしむわな。ちょくちょく、へえー!と思う情報も入っとる。でもしばらく懐かしんだあと捨てたわな。そら捨てるわな。置いといてもどうしようもない。ノートのはじめ2割くらいにちょっとだけの思い出と情報が入ったA4ノートなんて置いといて何がどうなるとも思えんかった。

明確な目的を持って行われなかった「記録」ほど自己満足になりやすいもんはなかなかないと思うててね。

ノート綺麗に取り出したら、最後まで綺麗に取りたいと思い始めるのと同じでね。あとで思い返すため、とかなんも考えずにだだ綺麗なノートを作ることだけが目的になってたりするよね。そんで綺麗なノートが出来上がると達成感あるんだけど、結局それが次の何かにつながることはそうそうないよね。

周りを見てると、どうも無目的に「そういうものだから」って理由で漠然とノートとってる人が結構多いように思える。

そのノート、そのあとどうするの?おら正直にいろんな人に聞いてみたいが。

もっというと、有名なアートディレクターが特別講義にきて学生にとって目から鱗な話をしてくださったりするよね。そんときにみんながとってるノートは、テストのためとかじゃなくて間違いなく記録として有意義なものになってるはずだよね。

でもこれさえ最近おれは疑問に思えてきてる。

だってみんな、特別講義でとったノート見返したりする?おれはしない。そのままにしちまう。見返さないもんだから、今までたくさんの魅力的な講義を受けて刺激も得た記憶はあるけど、そのほとんどを覚えていない。だからそのほとんどが水の泡になってるな、と思う。

例えば、1年ほど前だったと思うが、水野学さんが学校にきて特別講義をしてくださった際に自分は特別講義に参加してメモもいくつかとった記憶があるが、覚えているのはほんのわずかだ。というか3つだけだ。

覚えてるのは、
「ほんの一握りのデキるデザイナーになるためには、1.本をたくさん読むこと2.海外旅行すること3.作品たっくさん作ること、だ」
ってことくらいだ。

これは、一番わかりやすくて、一番求めていた情報で、一番印象的だった。だからノートにも書いた。でも書いたから覚えていたわけではない。印象的だったからでもない。決定打は、「友達に話した」ことだ。講義の後で、講義に出てなかった友達に、「面白かったよ〜特に面白かったのはね〜」と、話したんだ。この3つだけを。人から聞いた話を友達に伝えると自分の中に再度強くインプットされる。

今でも、誰に、どの店の中で話したか正確に覚えている。ノートを見返すでもなくこの3つだけは未だに覚えている。そして時々ふと思い出して、ちょっとやる気が出てきたりする。

人それぞれ違いはあると思うが、おれの場合、人に話すというのが最も効率的なインプットであると確信している。それ以外は流れるように忘れていっている。

逆に言えば、水野学さんの話を聞いていて、他にも確実にあったはずの「へえ〜!」が今ではすっかり水の泡だ。

他のあらゆる講義も9割か10割が水の泡になっている。水の泡、というのは、聞いている最中は目から鱗レベルの感動や衝撃がありながらも、あの講義をどれだけ「今」に「活かせているか」と問われれば具体的に言えるものは何一つない状態をいう。「へえー!」とは思ったものの「へえー!」止まりだと言えばわかりやすいだろうか。

有名なアートディレクターというとそれだけでお話を聞いてみたい!となるし、聞いてる最中で「へえー!」はたくさんあるかもしれない。でもその中にどれだけ「実際に価値を残している」話があるかといえば疑問だ。聞いていて、確かに「へえー!」と思った。聞き終わって、確かに「聞けてよかった」とも思った。でもそれ止まりだったらどうだ?

取り入れた情報がなんとなーく、自分の知らない間に役立つことなんてない。どことなーく自分の制作に還元されることなんてない。おれはそう思う。受けた講義から、何を学び、何を思い、何につなげられるかをおれはどこまでも明確に自覚したい。

みんなはどうすかね。

見返すことのないノート、山のようにあったりしませんかね。聞いてへえー!ってなって満足しちゃってる講義、山のようにあったりしませんかね。