月別アーカイブ: 2013年11月

広報入学センター入りたい

こんにちは。気づいたら上だけで6枚着てました。寒がりだからです。今めっちゃ暑いけど。ガストンです。

僕ももう3年生で、就職のこととか考えてるわけですが、実は就職先の候補の一つにムサビの広報入学センターがあります。

というのも、これまで舞台制作サークルやったりWebデザインやったりしてきたけど、どうも自分が最もやりたいことが広報らしいということに気づいたからです。

そう思うようになったきっかけが2つあります。

1つ目は、今年の夏、真夏のオープンキャンパスというムサビのイベントのWebサイト制作のお仕事をさせていただいた際に、自分が提案した企画が採用されたことです。来場者数を増やすためにこうしたらいいんじゃないかと思ったことを実行できたのです。実際、来場者数は昨年度の4.5倍の4500人に跳ね上がったそうです。まあ、主な要因は他にいくつもあったと思いますが、それでも自分がいくらかは貢献できた気がして嬉しかったです。

自分の企画が通ったことから自分の企画力に自信が持てて嬉しかったとかじゃなくて、イベント全体が望む結果に貢献できた気がしたから嬉しかったのです。

2つ目のきっかけはepa!という舞台制作サークルです。

パフォや演出や事務など、3年に渡り様々な役職をやってきましたが、やっていて最も自分が楽しかったのは事務でした。美大にいながら、演出よりデザインより事務が楽しかったのです。

例えば新入生歓迎のための資料作りなどをする時に意識したのは「ブランディング」でした。しっかりした団体なんだと思ってもらうことが目標でした。最終的な制作物を僕がデザインすることもありましたが、クオリティが高ければ他の誰かが作るのでもよかった。

あくまで自分のやりたいことはデザインすることではなく、新入生が何人集まった、などの「結果」を出すことでした。手を動かすことよりも、団体全体をいい方向に持っていくための会議を重ねることの方が楽しかった。

僕は多分、美大にいるデザイン大好きな人たち程デザインが好きじゃない。こいつには多分デザインで勝てないな、と思う友達がもう何人もいる。

でも、広報や事務仕事をするのに必要な観察力や行動力やコミュ力(営業力)ならムサビの誰にも負けない自信がある。やってる自分が生き生きしていることを自覚できる。

もし僕が何か新しい団体やサークルに広報担当として入ったなら、その団体の誰もが求めている以上の働きができる自信がある。強制されてなくとも自主的に企画をいくつも提案し、プレゼンで納得してもらい、実行できる自信がある。

そんなことを思って、こないだ広報入学センターの人に進路相談に乗ってもらい、具体的にどんな仕事をされているのかお聞きした。そしたらドンピシャだった。その人はいくつも、ムサビの問題点を考え、それらを解決するために自分から企画して動いていた。聞いていて本当に羨ましかった。心底この人と仕事がしたいと思った。

だが残念ながら来年新卒でムサビの職員になる枠は今のところないらしい。おれ死ぬほど残念。ほんとにまじか。

その広報の人は、他の大学や企業での広報も向いているかもしれないから色々調べてみたらと、アドバイスして下さった。自分のやりたいことはどうも「広報」と世間は呼んでいるらしいということが知れただけラッキーだと思った。

わかる人だけわかればいいってどゆこと

こんにちは!なんで空は青いのか、なんで海は青いのか、なんで青いものは青いのか、未だによくわかりません!ガストンです!

 

美大にいて、作品に対して、わかる人だけわかればいい、っていう言葉をちょくちょく聞きます。 僕もWeb担当として関わっている、小平アートサイトという展示イベントにもそんな作品がありました。

その作品が置かれてあるはずの雑木林付近に行くと、何も置いてありません。作者に聞くところ、展示期間中、作者が不定期で作品をその雑木林近辺に置くそうです。場所は決まっておらず、展示に来た人がぶらぶら歩いていて、偶然ふと目に留まる、という風に作品と出会ってもらうのが狙いだそうです。雑木林なので、置いてあっても「展示物らしくない展示」になるでしょう。

 

僕はこういった主旨の作品の面白さがよくわかりませんが、おそらくわかる人にはわかるんでしょう。そういうコンセプトに共感する人もいると思います。それ自体を否定するつもりはありません。少なくとも小さい頃から今に至るまでずっと美術館をろくに楽しめていない自分に美術的感性が備わっているとは到底思っておりません!

だがしかし!僕がそういう作品を見ていて思うのは、そういった主旨の作品が製作過程において「逃げ」の側面を見せることが多々あるんじゃないかということです。

少なくとも、展示期間初日にさっき述べた作品が、あるはずの場所にないのを見て僕は「初日に間に合わなかったのかな」と思った。 作品に「完成型」を定めず、天候や、見物人の来る時間などの偶然性のある要素との掛け合わせで「完成」だとする作品には「こうでなければこの作品は完成ではない!」といった基準がない。なるようになったその先が完成だという。 果たしてそこに「逃げ」は1%もないと言えるのか。

僕自身を含め、ムサビの学生が制作において、スケジュールを守れないことが多くあるはよく知ってる。

現に、小平アートサイトの他の作品の中には、「完成形」が初めからあって、それが期日に間に合わず初日に展示されていないものもあった。その展示場所に行けば申し訳なさそうに「この展示はありません」と書かれている。

そんな中、初めから「完成形」を定めていない作品は、展示がされていないのにも関わらず素知らぬフリだ。「わざとです」「そういう作品です」というのが、僕はどうにも腑に落ちない。間に合わなかったことの言い訳に聞こえて仕方が無い。あるいは、間に合わない可能性を見越してはじめからそういうテイストの作品にしたかもしれない。

 

ここまでねちこく疑われて、それでも心の底から「ガストン、バカだな。感性の乏しい愚かなガストンよ」と言える人には僕はもうなにも言うことはない。そういう人を僕は一人知ってる。彼がそういう制作をしても僕は逃げだとは思わない。完成形のない作品を深く深く考え、狙って、完成形のない作品を作っている。そういう人も中にはいる。

しかしガストンにこういうことを言われ少しでもドキッとした人は、そのドキッに正面から向き合うべきだ。つまり自分の表現の中に「逃げ」の側面が少しでもないか、考えるべきだ。

先輩面飽きた

こんにちは!踏み絵を初めて習った時、「絵ぐらい踏めばいいじゃん心の中では改宗せずにさ」と思ってました!信じるものがないと、信じるものがある人の気持ちわかんない。ガストンです!

 

以下これおれの場合ね。おれの場合。

1年生→キャピキャピ大学生。先輩の言うことがなんでも新鮮で勉強になる。その一方で先輩が先輩面をするたびに「ちくしょうおれだって上級生になったら偉そうに振舞ってやる」と野心を抱く。

2年生→後輩が入ってきてテンションMAX。可愛い女の子も確認してテンションMAX。ようやく先輩面ができるようになり嬉しくって嬉しくってなんでも教えてあげたくなっちゃう。

3年生→先輩面にももう飽きて後輩が入ってきてもそんなにテンション上がらない。とりあえず可愛い女の子は確認してそこはテンションMAX。

 

こういう流れがある。 2年の時、グループワークで一緒になった後輩に、イラレ講座とかフォトショ講座とか開いて勉強会みたいなのしてたんだけど、最初すっごい楽しかったんだけど何回かやってるうちに飽きた。ツールの使い方教えるのってすっごい時間かかるし、教えるのに慣れてしまったらもう教えるの作業だし、教えてる間おれの吸収皆無だし、時間もったいないなとか考えるようになってしまった。

自分がダブルスクールしててもう卒業した専門学校のティーチングアシストのバイト(Webサイト作るコーディング技術とか教える)も、最初は楽しかったんだけど途中からすぐ飽きだした。「教えるの楽しい!」から、「めんどい!」に変わった。 ツールの使い方以外にも人生経験語るとかについてもそうだ。こないだ、男子の後輩に「ガストンさんの話色々聞きたいです」って言われて、ああ、これはおれが色んなことについて熱く語るのを聞きたいんだな、と思った。と同時に、「おれの吸収は?」と考えてしまった。

まあ、それでも話しだしたら結局盛り上がって思わぬ吸収結構あるってわかってるから話せばいいんだけど。はじめが面倒なだけで。 少なくとも、2年生の時に比べて、先輩面に飽きてる。こう言うと偉そうだけど、フォトショの使い方教えてくださいとか、ガストンさんの話聞きたいですって言ってくれる後輩はたくさんいる。ほんとに嬉しい。テンションMAX。

でも、その気持ちに対して、優しさや思いやりや友情や先輩面できることの優越感などの感情だけで応えるのはおれもう無理。おれのメリット求めちゃう。 でもだからって後輩に対して無関心で冷たい人になっちゃうのもおれやだ。だったら別のどこかからおれが後輩と話すメリットを引っ張ってきて後輩の気持ちに応えたいなとも思う。 だからこないだの男の子の後輩には、ある作業を手伝ってもらいながら話そうということにした。おれの葛藤一件落着。

 

自分が1年生のときは、先輩に聞けばなんでも教えてくれると思ってたし、それが悪いことだとも思ってなかった。 でも違った。今も悪いことだとは思ってないが、おれみたいに先輩面に飽きちゃった先輩はそれに無償で応えるサービス精神はもう持ち合わせてないよ?ってのは実際のところある。

いやーほんと申し訳ない。ほんと申し訳ないがガストンは最近こんな感じなんだわ。 後輩の友達たくさんいるけどみんな嫌いなわけじゃないんだわ。教えるきっかけづくりが面倒なだけなんだわ。ああ人生楽しい。

顔いいねえと、声いいねえ

こんにちは!両手で最大20回骨鳴らせます。ガストンです!

声いいね、は大丈夫

こないだ学校で、男の先生が女子生徒に「声いいねえ」って言ってました。セクハラではありません。その授業は、ある論述を学生が段落ごとに順番に読まされるもので、今日は誰々と誰々が交互に読む、ってのが予め決まっている、つまり一回の授業で読む人は2人しかいないということになっていました。

授業が終わった後、その授業で読み手をやってた女子学生が教授のとこになんか提出しに行った時に教授がサッと嫌らしくなく言ったのでセクハラ感は皆無でした。女子も、あ、そうですか、ありがとうございます、という普通の反応でした。

顔いいね、はだめだよね

はい、今までのが「声いいね、が大丈夫だった現場」の例ね。

でも顔いいね、はダメじゃん。その例はないんだけど、間違いなくどんな状況でも言っちゃダメじゃん。なんでだろって思って。

例えば僕が初対面の女の子に対して顔いいねとか、顔可愛いねとか言ったら即「チャラ男」のレッテル貼られるわけじゃん。いけすかん。なんで。

例えばおれが誰かに「可愛いね」って言うじゃん。おれとしては「目が大きくて涙袋があって肌が綺麗で歯並びがいい」女の子を「可愛い」と認識しており、「あなたはそれに該当してますね」と言っているに過ぎないのに、言われた方はまるで顔以外も肯定された気になったり、こいつは私を狙ってんのかと警戒したり、色々考えちゃう。

顔の各パーツのバランスが自分の中の「可愛いモデル」と近かったというだけなのに。

なんで声いいね、とか爪綺麗だね、とか優しいね、とかは普通に嬉しいだけなのに、顔いいね、になると空気が変わるんだろう。

なんで声いいね、はセクハラにならなくて顔いいね、はセクハラになるんだろう。

後輩にイラレ教えることになった

こんにちは! エコとエゴは紙一重!ガストンです!

「イラレ教える」ということの難しさ

僕の周りにはイラレ(Illustrator)やフォトショ(Photoshop)を教えてほしいという人がたくさんいます。もしロリ顔でバカっぽくて可愛い年下の女子大生(できれば女子高生)にこんなお願いをされてしまったらいくらでも教えてあげたくなってしまいますが、でも簡単に「教える」と言ってもこれって実はすごく難しいことなのです。 例えば仮にそういう人を数人集めて(できればハーレム状態で)パソコン教室みたいなのをやっても、その日紹介したツールの使い方とかはその後それぞれの生徒が自分の制作で使っていかないと結局は身につきません。 イラレなどのパソコンのツールは、語学学習などと同じで、使い続けないと使い方を忘れてしまいます。 また、ある程度まで使えるようになると、「ググれば大抵わかる」という事実に気づきます。なので単純にツールの使い方を教える、というのはとても非効率的だといえる。

で、この度後輩に「イラレ教える」ことにした

で、こういった難しさを踏まえた点で、今回、あえてある後輩(以下N子)にイラレを教えることにしました。 つまり今回の目標は、「本人に『自分はイラレあんま使えない』という認識がなくなるレベルまで使い方教え、ついでにデザインの基本も教えられるだけ教え、かつ、ググれば大抵わかるという感覚を掴ませ、かつ、恩を売る」ということになります。 かつ、あわよくばあんなことやこんなことも教える、といきたいところですが、何分、N子は夢に描いたロリロリ女子高生とは程遠い後輩であるためこれは叶いません。悪しからず。

具体的な戦略

先にも言ったようにパソコン教室では意味がないので、具体的な課題を与えることにしました。やる気を出させてあげるために、僕とN子の所属しているサークルの新入生歓迎ポスターを作らせることにしました。 ポスターを作るのは初めてだそうなので、とにかく量をこなした方がいいと思い、3枚、練習用にポスターを作らせた後、本番用のポスターを作らせることにしました。 練習用も本番用も、僕がチェックして、ここをこうした方がいいとかアドバイスして、制作期間はツールの使い方なんでも聞いてくれ、ということにしました。 今回、僕なりに「イラレ使えるようになりたい」と叫ぶ人たちの需要を、どう満たすことができるか、自分なりに試行錯誤して実践してみましたが、まだ練習用第一弾のポスターも完成してないのでこれからどうなるか、楽しみです。やるからには僕も頑張る。

ツール使えるようになりたい人はとにかく数作るべし。

最後に、「イラレ教える」ってだけでこんなに気合入れてるのは、やはり、手を出しつつも意思はありつつも、ツールを自分のものにする前に挫折した人をたくさん知っているからです。 「イラレ勉強したいんですけどオススメの本ありますか?」 うん。その心意気やよし。やる気は伝わった。やる気を出すために本買え。ただ多分、読んでもそんなに身にならない。読む気失せたら自分のやる気のなさ責める前にすぐやめろ。やる気を維持させることこそ最大の壁だ。だからイラレ使える先輩や友達に頼れ。イラレやらなきゃいけない状況といつでも質問できる状況を作り上げろ。 結局、ミソとなるのはそこだと思う。 …と、かねがね思っていたので実践してみたというわけでした。

フラットデザイン好きじゃない

こんにちは!部屋を片付けられない人は愛せません!もし僕が木村拓也だったら「部屋を片付けられない女は好きじゃないし、片付けられない男は女にモテないと思う」みたいな発言をテレビでぶちかましてやることで木村拓也の人気が失墜し、いやてかおれが木村拓也だ!ダメだこりゃ!ってやるんだ。もうなんだろうこれガストンです!

フラットデザイン好きくない
僕はフラットデザインが個人的に好きくないですし、個人的にでなくともWebデザイナーの端くれとして一言申したいことがあります!

その前に、そもそもフラットデザインとは何か、この上なく乱暴に説明すると、iPhone使っててiOS6からiOS7にアップロードした人はわかると思うのですが、「立体的なアイコン」が「平面的でシンプルなアイコン」に変わりましたよね。はい。もうそれ。そゆこと。フラットデザインてそゆこと。要は「のっぺりシンプルデザイン」です。

今世界中のWebサイトやスマホのUIなどのあらゆる「画面上のボタン」がのっぺりシンプルになっています。流行ってるんです。

なんでフラットデザインになったの?
フラットデザインブームの大きな火付け役となったAppleのiOS7。同社がiOS7でUIをフラットデザイン風に変更した理由を調べてみました。以下、超絶意訳。

Apple「てかそもそもさ、アイコンとかのボタンに影やパースをつけて立体的に見せてたのはさ、現実世界での見え方を真似てたわけやん?それはiPhone使う人が現実世界に生きてて、影とかパースのある世界におるから、それに似せると『ああこれ押せるボタンねはいはい』とかってわかりやすいかな思ってやったことやん?

でももうさ、みんな慣れたっしょ。文字打つボタンとかさ、一個一個ガラケーみたいに影つけてテクスチャつけて現実のボタン真似せんでもさ、あかさたなはまやらわが並んでたら『押せる』ってわかるっしょ。アイコンやアプリも同じでさ、現実世界っぽくせんでも何をどうしたらどう動くかとかわかるっしょ。」

とのこと。もはや意訳を通り越して自分のフィルターかけてしまった感ありますが、大体そういうこと。他にも、「影をつけることで解像度の低さを誤魔化していたがそれも解像度が上がった今やる必要がなくなった」だとか「レスポンシブル化が進む今後、画像などを使う機会が少ないフラットデザインは様々な画像サイズに対応しやすい」など、フラットデザインに移行するメリットは色々ありますが、僕はこの流れに納得できない。

特にここでは、見た目のかっこよさやレスポンシブ対応とかを別にして、「みんな慣れたっしょ」に関してのみ反論したい。

慣れてなくない?
ズバリ反論したい理由がこれだ。慣れてねーよ!ということ。

僕らは3次元の世界に生きてて、「インターフェイス」と「現実世界」のどちらと繋がりが強いかなど、言わずもがな後者だ。もちろん、画面が現実世界を模倣しなくなったところで支障なく使える。平面的だろうが立体的だろうが、今までと操作性が似ていれば困ることはない。そういう意味では慣れている、と言える。

しかし初めてその機械を使う人はどうだ?そこには慣れもクソもない。誰かが生まれて初めて見る「画面上のボタン」がのっぺりでいいのか?

スマホやパソコンを初めて使う人にとって「現実世界を模倣したデザイン」は少なからずよい説明書代わりになる。

デスクトップという言葉の本来の意味は、読んで字の如く机の上という意味だ。机の上で書類を整理するイメージだ。だから「データの消去」という操作が「ゴミ箱アイコンへのドラッグアンドドロップ」なわけだ。なんという分かり易さ。感動する。

だがもし仮にこのゴミ箱がフラットになってしまったらどうか。「逆さまの台形」みたいなことになっちゃったらどうか。世も末だ。万人向けのデザインとはいえない。

てなわけで僕はiPhoneに「立体感」が戻った方が初めて使う人にとって親切だと思っているし、この流れに沿って盲目的に、デスクトップのゴミ箱アイコンなどの「必要最低限の模倣」さえフラットにしてしまうことを一人勝手に危惧しているわけだ。

とかいいつつ模倣する物がなくなってるのも事実

だが!だがだね君!ここでもう一つ、一見関係なさそうでいてありそうでもあり詰まる所なきにしもあらず臭いこととして言及したいのが、実はその反面、僕は、「現実に模倣する『物』がなくなってきている」ことに関してもそわそわしている。

例えば電話のアイコン。あんなもん誰がどう見ても電話の受話器だし、バナナで電話するノリツッコミ文化も、受話器があのかたちをしているゆえだが、そもそも、固定電話が近い将来この国から消滅するだろう。

その時まだ今の電話アイコンが使われていたら、その時代に生まれた子供にとって、「なんで電話のアイコンがダンベルなの?」となるに違いない。

なんでこのガキは固定電話も知らないのにダンベルを知ってるんだ!おじさんが子供の頃は「お電話ですよ」とか言いながら大阪人にバナナを差し出すとなあ…!と説教したくなりますが、これが時代の流れというもの。

今後、アイコンのモチーフとなっている「オリジナル」の物の消滅は加速していくと思う。

今でも既に、「保存」を表す「フロッピーディスク」のアイコンなどがそうだ。フロッピーディスクなど今や誰も使っていない。人の目に触れる機会は明らかに現物よりアイコンの方が多い。

だがそれでも「昔使ってた物」をアイコンにする流れを止めるわけにはいかないだろう。例えば電話以外にもメールのアイコンは「便箋」だ。紙だ。今や日常的にはほとんど使わない。メールも電話もスマホでできる。のにアイコンは便箋と受話器だ。

かと言って、メールのアイコンも電話のアイコンも「スマホ」にしたらもうそれはそれはわけわからなくなる。「電話が緑でメールが青ね」とかなってくるとそれはもう発狂ものだ。きえええぇぇぇー!!って一人家で言ってやる。わかるかボケェェェェ!!って初めてスマホ使った人の怒りを勝手に代弁してやる。

フラットしすぎは初心者に優しくないかもしれない。この先モチーフとなる「もの」はどんどんなくなっていくかもしれない。そんな中「わかりやすいインターフェイス」とは何か?使いやすさと分かり易さのバランスをどうとっていけばいいか?

こうした問題について考えていると、デザインが「かっこよさ」や「使いやすさ」だけを考える分野でないことがわかってくる気がする。時代とともに語られるデザインテーマが変化していく感覚がわかる気がする。

んんーーやっぱり難しいねデシグン!

映画スティーブ・ジョブズ見てきた

こんにちは!小学生の頃、レストランに行ってメニューに「魚」と「肉」が分けて書かれていることに違和感を抱えていました!だって「魚」も要は「魚の肉」じゃん!!そうだろ!!ガストンです!!

映画見てきた
映画「スティーブ・ジョブズ」見てきました。ネタバレありでレビュー。これから見る予定でネタバレされたくない!という人は今すぐウインドウを閉じてパソコンをシャットダウンしてこの情報社会からの逸脱を試みよう!

僕はスティーブジョブズの数々の逸話は元々どれも大好きで、しかも予告ムービーがもうめっちゃ面白そうで、ずっとウハウハ言いながら楽しみにしてたわけですが、んーー、、結論から言えば残念。本編よりむしろ予告ムービーの方が面白かった。

てゆうか予告の方が面白い映画あるよね。
いきなり脱線だけど、僕は映画の予告が大好きです。もしかしたら映画よりも好きかもしれない。映画本編の要所要所を切り取りつなげながら、時折不適切な繋げ方をしたり不適切な字幕を入れたり不適切な音声と映像の組み合わせをしたりしながら、おそらく本編の制作会社とは全く違う下請けの会社がいじってるんだろうなあと思いつつも、その編集そのものが魅力的だったらつい許せちゃいます。てゆうくらい予告が好きです。

つまり、すごくいい予告を見た後に見た本編が残念だった場合、まあ予告がいいから許す、となっちゃえる。予告を一つの作品として見てる。

もうちょっと予告について語ると、ファンタジーや冒険ものの予告って、「場面の種類が豊富」であることがとても大事だと思う。ジャングルと火山地帯とハイテク施設が一つの予告に出てきたら観る側は世界の広がりを感じてうきうきできる。例えばトイストーリー3の予告なんかはそういうのがあるからうきうきしまくれるんだと思う。

このままだと予告に関する記事になりそうなので話をジョブズに戻す。

活かしきれてないと思います!
僕は映画を見る時、脚本を最も気にするんですが、この映画はスティーブ・ジョブズという素材を活かしきれていなかったように思う。

彼女や友達を切り捨てる残忍さを象徴するシーンも、ビジョンを共有できていない社員をボロカスに罵り、ジョブズの仕事に対する厳しさを象徴するシーンも、自分が立てた会社をクビになり言いようのない怒りや悲しみを象徴するシーンも、それぞれ今一つ主張が足りない気がしたし、純粋に尺が少し短かったようにも思う。

これらはスティーブ・ジョブズという人間を描いたこの映画のポイントとなる重要なシーンだと思うのだが、そこの表現が純粋に短く、次のシーンへの繋ぎ方を見ても「重要なシーンっぽく」見えない。

特に自分が作った会社をクビになったあとジョブズが1人で叫ぶシーンは短すぎた。

ポイントで見せるという点で言えば、Facebookの創設者マーク・ザッカーバーグの半生を描いた映画「ソーシャルネットワーク」は、今思えば見せたいポイントがわかりやすかったように思う。

むしろリッチマンプアウーマン
変な話だが、スティーブ・ジョブズの半生をモチーフに描いた物語という点で言えば、映画「スティーブ・ジョブズ」よりも、2012年7月に公開された日本のドラマ「リッチマン・プアウーマン」の方が個人的に楽しめたと僕は思っている。

小栗旬と石原さとみが主演の恋愛ドラマだが、明らかにスティーブ・ジョブズをモチーフにしている。小栗旬が今最も注目されているITベンチャーの社長で、天才でカリスマで変態である。だがプレゼンがめちゃめちゃ上手く周りの人に夢を与え、しかし人の名前を全く覚えられず人に関心がない。

さらにはお話の途中で自分が設立した会社をクビになり、すぐに別の会社を設立し、その後見事に元の会社に帰還し、成功を収める。

まさにスティーブ・ジョブズをモチーフとしており、しかもこのドラマが公開されたのはスティーブ・ジョブズが亡くなってから1年弱経った頃で、ジョブズのカリスマ性を讃える書籍が多数出版され人気を得ていた頃だ。多くの人が「イノベーション」「カリスマ性」という単語に注目し、ジョブズに憧れていた。

リッチマンプアウーマンはその憧れを映像化したものだと僕は感じている。しかもその中でのジョブズは日本人であり、Appleは日本の企業であり、使われているパソコンはMacではない。

ここに描かれているのはAppleや韓国企業に大敗した日本のIT業界の夢そのものだと思いながら僕は見ていた。

もちろん、リッチマンプアウーマンはあくまで恋愛ドラマであり、僕みたいな見方をしていた人は多くはいなかっただろうけど。

まとめ
結局、脱線に脱線を重ねた記事になってしまいました!

無理やりまとめると、映画「ソーシャルネットワーク」とドラマ「リッチマンプアウーマン」と映画「スティーブ・ジョブズ」の予告もっかい見たい!以上!(ドン!)

君が心配だ、ガストン

こんにちは!「休」って書こうとしても絶対「体」って書いちゃうよね!2回目も絶対間違えちゃうよね!3回目になるともう「休」がゲシュタルト崩壊だよね!ガストンです!

自己紹介

webデザイナー。美大生。理系。優しい。人として120点。嘘つき(本当は人として2億点)。

ブログ名の由来

好きなアニメキャラのセリフからとりました。僕はディズニーアニメが大好きなんですが、その「美女と野獣」にガストンという悪役が出てきます。彼はとても魅力的なキャラクターです。どんな人かというと、イケメンで体育系で強情で自分勝手で街の女の子にモテモテだがヒロインであるベルには振り向いてもらえず、そのベルが心を許してるっぽい野獣の存在に気づき、何アイツ野獣のくせにハまじで意味分かんない殺しちゃおおおおっと足が滑ってこれ死ぬやつやないか畜生オォォォォォ!!!!!っていう人です。

で、君が心配だ、ガストンというのはそのガストンの子分、ルフウが、ベルに一度振られて自信を失っているガストンを励まそうとした時に発するセリフです。ルフウ大好きです。ガストンもまあまあ好きです。

リーガルハイ大好き

こんにちは!語感的に言えば、ふきんの進化系はナプキンだと思うんだけど、ついでに言うとナプキンは最近話題のフェアリータイプだと思うんだけど、それはあくまで語感的な話であって見た目的には全然関連性を感じないし何の話か全然わかんない!ガストンです!

最近、リーガル・ハイという堺雅人主演のドラマにハマっています!今日は、「リーガル・ハイ?何それ面白いの?リーガルがハイするの?」という方々のためにリーガルをハイする楽しさを余すことなくお伝えしましょう!!(ドン!)

大体こんなドラマ
天才で最強で悪徳で金の亡者ででも時々子供っぽくて嫌いになれない弁護士(堺雅人)が、朝ドラに出てくるような元気で優しくてドジな言わずもがな嫌いになれない新米弁護士(新垣結衣)と、裁判で勝ち続ける痛快コメディ。はい説明終わりィ!!

何がおもろいか
何が面白いかって、シーズン1(今やっているのはシーズン2)を見ればよりよくわかるんだけど、堺雅人演じる天才弁護士の弁護士としての哲学がとっても痛快。

仮に犯人が黒だと思っても、金さえ積まれれば白にするんですこいつは。

裁判において真実を追い求めるどころか、勝つためならマスコミや探偵をも使ってあらゆる根回しをして依頼人を勝たせるためだけに動く。そんなやつが主人公で、しかもコメディってところがもうウハウハだ。

余談だが僕の中で「裁判のイメージ」は、過去に2回ほど変化している。

まず初めのイメージはゲームの「逆転裁判」で、なんとなく「戦う」イメージだった。異議ありィ!ぐはあ!みたいな。

次は三谷幸喜監督の「素敵な金縛り」という映画で、その中に出てくる登場人物が「裁判は戦いではなく、真理の追求だ(うろ覚え)」みたいなことを言う。それで今度はなんとなく、ああ「戦い」というよりは「議論」という感じが正しいイメージなのかとなった。

で、リーガル・ハイでこれがまた「やっぱ戦いじゃーん!!まあそりゃそうですよねーーー!!!」ってなったわけだ。ほらもう痛快。

コメディだけどメッセージ性強い
話を戻すと、こんな悪徳弁護士に僕が好感を抱く理由はコメディ要素だけではない。彼の哲学に共感する部分が多いからだ。

シーズン1で面白い回がある。
大企業が立てた高層ビルのせいで我が家がビルの影になっちまったじゃねえか暗いわ馬鹿野郎、といういざこざによる大企業と地域住民団の裁判の回だ。主人公である悪徳弁護士は大企業の弁護をし、敵は住民が雇った優しい弁護士。

悪徳主人公は住民のことを「可哀想」などと微塵も思っていない。朝ドラ新米弁護士は悪徳弁護士の助手でありながら敵を応援している。ついには新米弁護士は悪徳主人公に「もうついていけない!」
となる。

悪徳主人公はあるしょぼい工具店に新米を連れて行く。そして「あそこの工具店は2年前に旦那さんに先立たれて残された奥さんが1人でやりくりしている。いまにも潰れそうなあの店の唯一の有力な取引先が○○(高層ビルを立てようとしている企業)だ。もし今回、この裁判で住民が勝ちビルの建設が中止になると確実にあの工具店は潰れる。…今君は、この裁判、住民側に負けて欲しいと、そう思ったんじゃないか?(うろ覚え)」と言う。

これやばくないすか!!!
どうすか!!!

でね、このあとこの工具店の話が悪徳主人公のでっちあげた全くの作り話であることがバレて束の間のコメディ入るんだけど、それでも主人公は「我々の知らないどこかにそのような工具店があるかもしれない。我々は自分が見たものだけの印象で誰が正しいかなど判断してはならない(うろ覚え)」って言うの。

そんで新米弁護士は「ぐぬう…!たしかにィ…!!(全然違う)」って言うの。

これやばくないすか!!!!
どないすか!!!

僕はこの哲学がすごくしっくりきてて。

オチはもやもやだけど、オレはむしろスッキリ

なんか、僕はこの世はイメージだよなーってすごく思ってて。

大事な会議は雰囲気で決まるし、人の意見が人の意見で変わるとき、「吹き込まれた」と本人は感じなくとも周りの人は感じてたりするし、言葉はポジティブな言い方とネガティブな言い方があるし、そうやって判断されてったものが「真実」になるけどなんだかなあって。

輝かしい功績の影に汚いやりとりが、、みたいな話はあるあるすぎて、むしろ「そうであって欲しい」と、考えがシフトしてたり。

もうそういうモヤモヤをズバハァッ!!!って代弁してくれるところが大好きで。毎回ほんと痛快なんです。

毎回、「で、結局誰が黒だったか」なんて絶対はっきりさせず最後まであやふやのまま終わるんです。これがすごくいい。だって現実もそうじゃん。多くのお話は、ハッピーエンドか、バッドエンドか、謎を残して終わるかのどれか。でもリーガル・ハイは、「真実なんてわかんないよね」というメッセージを強く残して終わる。視聴者に謎解きを任せているのではなく、謎解きなど無意味だと投げかけている。謎解きできたところでそれは「あなたの視点」でしかないと言わんばかりだ。

とか、ほら、ね、おれが語るとこんな風に硬くなっちゃうようなことを最初から最後までコメディ調を貫きながらやってるからだからリーガルがハイなんだよわかった!!!??(ドォン!)