「誰でも楽しめる演劇」なんかない

こんにちは!箱ティッシュのストックが全部なくなってから箱ティッシュを買いに行きます!いいえ、正確には「ああ買いに行かないとなあ」と思い続ける状態に突入します!ガストンです!

最近思うこと。半年前くらいまで、「誰でも楽しめる演劇」を目指してた。目指してる、と公言してたし、そう思ってた。でも今はちょっと違う。「誰でも楽しめる演劇」なんて言葉、もう使えない。

もともと「誰でも楽しめる演劇」ってどういう意味だったか

おれね、舞台屋アホロっていうコメディー専門の劇団をやってる。「演劇に興味がない人でも楽しめる演劇」とか「笑い8割、感動2割の王道エンターテイメント」とかをコンセプトにやってる。今もそれは変わりない。演劇をよく見る人よりも、ほぼ観ない人に見てほしいな、と思いながら今も制作してる。でも変わったことがある。前は、「誰でも楽しめる演劇」っていう劇団を目指してた。を作ろうとしてた。でもこれは間違いであることがわかった。もともとこの言葉をどういうつもりで使ってたかっていうと、「普段演劇を観ない人でも楽しめる演劇」「老若男女誰が見ても楽しめる演劇」「下ネタなし。専門的な知識なし。小難しい表現なしの演劇」「わかりやすいストーリーの演劇」という意味で使っていたのだ。でもこれらは決して「誰でも楽しめる演劇」ではない。「一部の人が楽しめる演劇」でしかない。下ネタがないと演劇見る気がしない人も、わかりやすいストーリーを嫌う人も世の中にはいるのだ。もはや「わかりやすいストーリー」という言葉さえ不適切な気がしてきている。どんな起承転結を「わかりやすい」と捉えるかさえ、人それぞれだ。

今まで僕が使っていた「誰でも楽しめる演劇」という言葉は所詮、「(自分が思うところの)多くの一般大衆が楽しめる演劇」でしかないということに気づいた。じゃあどうするか。

ちゃんと狙いを定める

これからは「誰でも楽しめる演劇」を目指すわけじゃない。「一部の人が楽しめる演劇」を目指す。一部ってどんな人かと言うと、アホロがはまる人だ。アホみたいだけどロマンのある設定、ギャハギャハ笑える、下ネタ少なめのギャグ、少人数の登場人物で織りなされる脚本、それらがはまる人だ。アホロを何回も見ている人が「これがアホロらしさだよなあ」と思う部分を好きだと感じてくれる人だ。

昔、「わかる人だけわかればいい」という学生が嫌いだった。今も好きじゃない。逃げ口のようにこの言葉を使う人はまだいるだろう。自分の世界に酔いしれて、作品としての穴さえ正当化する魔法の言葉。『「わかる人だけわかればいい」?ふざけんな!わかってもらえないと作品作る意味がねえだろ!おれは徹底してエンタメを作るぞ!わかる喜びを提供するぞ!自分勝手で自己中心的で投げやりな作品は作らないぞ!』と息巻いていた。でも、今は、ある程度これに同意だ。「わかる人だけわかればいい」というか、「わからない人にもわかってもらうために作品を変えたらそれは作品じゃなくなる」と思う。結果的に、「わかる人だけわかってる」状況になる。

誰にでも楽しめる作品なんてない。誰にでも楽しめる演劇もエンタメもない。三谷幸喜が王道のエンタメだという人もいれば、園子温が王道のエンタメだと言う人もいる。そのどちらが正解か、を、多数決で決めようとすることは無意味だ。人それぞれの「王道」がある。「笑い8割、感動2割の王道エンターテイメント」も、よく考えれば共通の言語にはなりえない。恥ずかしい表現だ。

ただ作りたいものがあるから作っているだけです、とは言いたくない。作りたいものがあって作っていますが、広報においては、狙いを定めて、ターゲットを決めて、なんならペルソナも考えてやってます。作品だけを作りたいんじゃない。年に2回、楽しみが増える。確実に楽しめる演劇を年に2回作ってくれる信頼できる劇団。それを作りたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です