美女と野獣を見てエンタメの本質に気付いた

こんにちは!君が心配だ、ガストンです!映画「美女と野獣」を見てきました。僕はアニメの「美女と野獣」が本当に大好きで、正直それとの比較ばかりしてしまって、実写の残念なところ探しをしながら映画を観る始末でして、当然あまり楽しめなかったわけなんですが、実写の感想もアニメとの比較も全部すっ飛ばして語りたいことがあるから今日はその話や!わいはエンタメの本質に気付いたんや!!

実写は全然面白くなかった

実写最高!!ってなってた人には悪いのだけど、おれは実写は全然楽しめなかったんだ!とにかくツッコミどころが多かった!もうアニメが好きすぎて、「そこはアニメに忠実でよくない!?」のオンパレードだったんだ!

あ、以下、ネタバレします。

・村人が魔法でお城の記憶飛ばされた説明いる!?
・王子が高い税金かけてた説いる!?
・ガストン、押し弱くない!?そこまでベルに嫌われることしてなくない!?
・ベルのお母さんのペストのくだり全部いる!?
・ベルが西の塔(アニメでは「西の外れの部屋」)に入っちゃって、野獣に怒られて出て行く時、フィリップ(馬)に乗っている!!馬に乗っているんだ!ということはパパはどうやって村に帰ったんだ?徒歩?アニメだと魔法の馬車(?)に連れられて村に返されるけどその描写なかったから徒歩?狼さんお仕事してない?
・野獣の歌いる!?
・ル・フゥがいい奴になるくだりいる!?
・アガットが実は魔女でしたの下りいる!?
・魔女が最後、ベルの「愛してるわ」を見届けるくだりいる!?
・村人の記憶戻った時、王子が高い税かけてた記憶も戻るはずで、村人は王子が野獣になっちゃってたことも、優しい人に成長した経緯も知らないはずで、てことは村人ラストで笑顔でダンスできなくない!?
・なんでラストのカットがオペラ歌手とピアニスト(クローゼットとピアノだった人)なんだ!そこは「お城の引きカット」だろぉーーー!!!

・・・このように、もうツッコミしかしてない。しかも「野獣の歌いる!?」とかに関してはもう論理的じゃないし、実写最高!!って人から「いやいいシーンだったやん!」って言われたらもうなんも言い返せない。でもこういうのを「好みの問題」の一言で片付けるのはクリエイターとして避けたい。

そこで考えた。「わしなんでアニメとの違いが許せないんだろう。そもそも好みってなんだろう。そもそもエンターテイメントにおける『良い悪い』の正体ってなんなんだろう」。

脚本の粗探ししながら映画を見るのは「正解」なのか、「不正解」なのか。

「『好みの問題』問題」に、僕たち作り手側はどう向き合えばいいのか。

で、考えてったら一つの結論に達した。「エンターテイメントとは、思い出すこと」だと。

昔を思い返すのは最高のエンターテイメント

これ話すんむずい。多分途中で「何言うてるのこの人」のその人になるけど我慢して。

えとね、まず僕がアニメの美女と野獣が大好きな理由を考えたのですよ。アニメの美女と野獣が「映画としてクオリティが高いから好き」なのか、「好みに合ってるから好き」なのか。

「美女と野獣」を初めて見たのは保育園児の時。でも、おれ大学2年の時にディズニーにハマった事件があったんだ。舞台サークルのみんなと劇団四季の「ライオンキング」を見た。それがもう、人生を変えるほどの感動だった。とにかく、すごい、面白い、感動、ドキドキ。映画「キサラギ」とかドラマ「リーガルハイ」とか見た時も「最高に人生トップクラスでめちゃおもろい!」と思ったけど、そんなのは比にならないレベルの、というか別ベクトル(違う方向性の)感動だった。

おれは劇団四季のライオンキング見ながら、昔、実家のリビングで見たアニメの「ライオンキング」をひたすら思い出してたんすよ。劇団四季が面白かったというよりもむしろ、それを思い出すことに快感を覚えてた。「そうだ、名前シンバとムファサだ。懐かし」とか、「うわこのスカーの歌!アニメだと緑色のシーンだった気がする」とか、「でたー!ムーの大群!昔、これで初めてムーという動物を知ったっけ」とか、一つ一つ思い出すたびに、幼少期のアルバムを開いて懐かしむような、中学の友達と久しぶりにあって思い出話に花を咲かせるような、高校の文化祭の死ぬほど楽しかった青春を思い出すような、そういうベクトルの感動を覚えた。

これらのベクトルの感動は、「面白い脚本、上手い演技力、盛り上げる演出、考えさせるメッセージ性のあるオチ」などとは完全に別物だ。実際、「今まで見た中で一番面白かった舞台は?」と聞かれると「劇団四季のライオンキング」は上がらない。それならKKPとかチームナックスの方が好きだ。だけど、あのライオンキングで得た感動は、あれっきりどの舞台を見ても感じないし、感じるはずがない、と、強く思う。

ごめんこの話思ったより長くなるわ。もう少し我慢して。

あのライオンキングを観てからおれはディズニーが大好きになった。あの後すぐにゲオに行き、アニメのライオンキングを借りて家で見た。劇団四季より感動した。それはやはり「クオリティ感動」ではなく「思い出し感動」だ。幼少期の思い出話がフラッシュバック!

ここで大事なのは幼少期に見た時におれはそこまで「クオリティ感動」も「思い出し感動」もしていないはず、ということなんだ。それなのに、大学生の今見たらこんなに胸がいっぱいになり、喉の奥が涙で濡れて、多分脳みそにはドーパミンがいっぱい出て科学的にも幸せ満タン状態になる。これってすごいことだ。

それからまるで取り憑かれたように片っ端から昔見たディズニー映画を見まくった。「アラジン」「美女と野獣」「シンデレラ」「白雪姫」などなど。それは当然、これらの作品は「思い出し感動」を与えてくれるだろう、と予測できるからだ。「モアナ」や「ズートピア」など、ディズニーの新作が出たら必ず見るけど、それは「クオリティ感動」を与えてくれるだろうと期待してのこと。やはり別物だ。というかこの世のほとんどの映画や舞台を見る動機は「クオリティ感動」を期待してのことだろう。

しかし言うまでもなく、「クオリティ感動」は「思い出し感動」に勝てない。勝てっこない。別次元。別次元だけど、「お金を払って幸せを買う」という点では同じ類。でも勝てっこないのだ。

あの漫画なんだっけ。「ザ・シェフ」かな?よく覚えてないんだけど、ある天才料理人が舌の肥えた偉い人をボロ泣きさせて「こんなに上手いものは食べたことがない」と言わしめた。しかも、大した素材を使わずに。彼は、偉い人の出身地で取れる素材を使い、彼の幼少期の記憶を蘇らせ、「上手い」と言わせたのだ。そういえばディズニーピクサーの「レミーの美味しいレストラン」でも似た描写があった。わたくしガストンが劇団四季のライオンキングを観た時ももちろん同じ。

ここでまた大事なのは、「人は『クオリティ感動』と『思い出し感動』を混同する」ということだ。わたくしも劇団四季を観た時は混同していた。というか今までずっと混同していた。実写「美女と野獣」を見るまでは。

はい。もうおもろいね。今日のガストンほんとにおもろいね。でもまだまだ続くぞこの記事は。

そもそもなんで私はアニメの「美女と野獣」が好きなのか

ここでやっと冒頭の話に戻るんだけど、私は実写よりアニメの方が10倍面白かったと「感じた」。なんなら排他的に。実写を見たら粗探しをする始末。他の会社が作った「美女と野獣」を見てもきっと同じだろう。アニメの「美女と野獣」が最高だと信じて疑わず、「こっちの方がクオリティは高いよ」と言われれば「好みの問題」を振りかざして議論を別次元に移し、自分の、自分だけの「アニメの美女と野獣」を守ろうとする。

それはまるで、「徳島には東京にはない素晴らしさがあるよ」と主張する徳島県民のようだ。「大手の美大予備校よりも少人数の個人経営の小さな予備校の方が一人一人を見てくれるよ」と主張する小さな予備校出身者のようだ。「学生のうちは単位取ることよりも課外活動に打ち込んだ方がいいよ」と主張する、自分もそうした学生のようだ。

人は自分のキャリアを肯定し、論理的に批判してくるような者がもしいれば耳をふさぐ。それはとても自然なことだ。過去は誰にとっても財産であり、ネガティヴよりもポジティブに捉えたいに決まってる。同じことがエンターテイメントの基盤でも起こってるんじゃないか。

僕がアニメの「美女と野獣」が好きな理由はズバリ「思い出し感動」がでかいからだ。

この世のありとあらゆる作品を「好みの問題」抜きに評価することなんて不可能だ。それは「思い出し感動」を無視して「クオリティ感動」だけを見なければならないことになる。

そもそもエンターテイメントの本質は「思い出し感動」なんじゃないか

はいやっと本題。この「思い出し感動」は、実はありとあらゆるエンターテイメントの根幹なんじゃないかということ。

おれにとってのディズニーにあたるものが、全ての人にとって、いろいろあるんじゃないか。自覚してないだけで、全員、過去にそれに似たものを見て何かしらの「記憶が呼び起こされること」があってこそ「面白い」「楽しい」という感情が沸き起こるんじゃないか。

これ、多分、かなり根本的なことを言ってる。

こっからさらに踏み込んだ話。

なんならそもそも、「クオリティ感動」でさえ、思い出してるからクオリティ、なんじゃないか?

わたし、映画も舞台も「脚本」が好きで、伏線回収があって、びっくりがあって、前半面白おかしい、後半に考えさせる話があったりどんでん返しがあったりするのが好きです。

例えば「キサラギ」という映画が大好きです。もうあれを見てからは、少しでも「キサラギ」っぽい映画(笑いあり、涙ありの伏線回収半端ない密室リアルタイム映画)を見たら「キサラギより上か下か」を判断する脳みそ状態で映画を見てしまう。これは良くない映画の見方でしょうか?

例えば「セッション」という映画が大好きです。これと同じ監督の新作「ラ・ラ・ランド」という映画が出た時は、「セッションとどちらが面白いかな」と考えながら「ラ・ラ・ランド」を見てしまいました。これは「純粋に映画を楽しもうとしていない良くない見方」でしょうか?

いいえそんなことはないはずです。

なぜならどんな映画を見るときも、具体的な比較対象を思い浮かべているかどうかはさておき、誰しも無意識に「過去に見たよかったやつ」と比較してるんじゃないでしょうか。

例えば僕は「開始10分でどんな映画かわかる」が映画の脚本において大事だと思っています。これは、僕な好きな映画がことごとくそうだし、有名な脚本家の人の本でも書いてあったし、自分が舞台の脚本を書くときにもそうなるように気をつけることでよりよくなっていく自覚があるので、一つの真実だと思っています。

逆にその分、映画を見るときに「そろそろどんな映画か示してくれないと辛いな」なんて不純な思いが脳をかすめます。

自分の中に「脚本ルール」がある。ちなみにこれです。めんどいから全部読まなくてもいいよ。

これと合ってるかどうかで映画を評価する、なんてことはもちろんしませんが、どうしても映画を見ながら、これと合ってるかどうか、という視点を持ち込んでしまうわけです。ここまで具体的に自覚してるかどうかはさておき、絶対全員そうです。全員何かしらの映画を見るときの「不純さ」を持ち合わせている。「こういうのが面白いと思う」のルールを持ち合わせている。

バレエの話

こないだ、生まれて初めてバレエ見てきました。体の動き美しい!すげえ!と思いつつも、ちょっと気になったのが、ワンシーン(1曲)終わるごとにお客さんが拍手して、人によっては「フー!」とか言うんです。暗転もしてないし舞台上でまだ役者が普通にいるのに。その拍手が鳴り止んでから次のシーンに移行する。ぼくは舞台とは「別世界に連れて行ってくれるもの」だという気持ちがあるので、シーン間の拍手で少し引いてしまいました。やめて欲しいと思った。でも同時に、「バレエとはこういうものなのかな」とも思った。

これです。「こういうものなのかな」という感覚に「クオリティ感動」の本質がある気がします。

歌舞伎や、宝塚や、劇団四季などでも同じような、「初心者にはわからないその場特有の楽しみ方」があるかもしれません。

人間には多分「ルールに則る快感」というものがある気がする。

「ここではこうするんだよ」と教わり、その通りにし、そこの住人になれた時、最初は「なんで?」と思ったマナーも、「住人の証」のように思えて安心感と一体感を得る。幸せを得る。

似たことが絶対、歌舞伎じゃなくてテレビドラマでも、ジャンプの漫画でも、ハリウッドの映画でも、あるんですよ。「一般的」と言われているものにも必ずある。

エンターテイメントにある「型」をはめることで見やすくしている。

締め

はい。結局まとまりませんでした。頑張ってまとめようとするとこうです。

幼少期に見たものの集合体が「好み」の正体で、物心ついてから見た、よかったやつの集合体が「クオリティ良い悪い」の正体なんじゃないか。

エンターテイメントの本質は「思い出し感動」をいかに「クオリティ感動」の中に込めるか、なのではないか。

「クオリティ感動」にはマナー(型)があり、スポーツのようなもので、おそらくある程度は「良い悪い」を言える。どんなに抗っても、形式化していく。

「クオリティ感動」は「思い出し感動」に絶対に勝てない。

・・・うん。やっぱりうまくまとまりませんでした。とにかく、実写の美女と野獣はきっと、クオリティは高いのだけど、ぼくを「思い出し感動」させることはできなかった。ぼくはアニメの「美女と野獣」をこれからも愛し続ける。そしてその愛をエンジンにこれからも作品を作り続ける。

そして高校生の文化祭マジ楽しかった、と、美化した過去に想いを馳せることを恥ずかしいことだと思うことを止める。なぜならその「過去を美化し、思い出した時に得る幸福感」をバカにしていたらエンターテイメントは作れないはずだから。

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