意味の意味について

じゃあ今日は、意味の意味について、をテーマに1,000字くらいの文字を書いてみようと思うよ。オチも今んとこ用意してなければ、何か伝えたいメッセージもないし、なんなら面白い文章が書けそうな気も、うーん少ししかしてない。あなたの時間をいたずらに奪うだけになる可能性80パーくらい。なんならガストン、考えながら喋る。これを思考の自慰行為と呼ぼう。意味はない。

最近、意味の意味についてたまに考える。


例えば、ここに世界一意味がないコップがあるとする。どんなコップだろう。

たぶん、水がくめない。1mlもくめない。底がないせいかもしれないし、コップ自体が金魚すくいの紙でできてるからかもしれないし、コップの口がガラスで塞がってるからかもしれない。「もはやお前はコップですらない」とお父さんに言われてしまうかもしれない。

あるいは、見た目は普通のコップでも、環境的に意味を失う可能性もある。

超硬い金庫の中に入っていると意味がないし、辺りが水の一切ない砂漠でも意味がないし、なんならこれを読んでいるあなたにとっておそらく“今は”コップはいらないだろう。

じゃあ、“使えない”とか“要らない”とかいうことになったコップには何故意味がないのだろうか。ちなみに「水は組めなくても楽器として使えるぴょん!」とかの意見はナンセンスだぴょん。考えたいのは“使えなさそうなコップの活用方法”ではなく“一切活用できなさそうなコップの意味とか存在意義とか意味とか”である。

もはやコップと呼べないなら、呼ばなくていい。ゴミと呼んでもいい。それに意味はあるか。あるいは、「なんでいつの間にか意味がないとダメ、みたいな前提でおれは話してるんだ?ほら後ろのカギカッコが行き場を失った。考えながら書いたらこんなもんだ。

なんでモノには意味がないとダメなのか。
なんできれないハサミは切れないだけで「意味ない」と言われてしまうのか。
止まっているエスカレーターは「意味ない」と言われてしまうのか。登れるのに。

両方が柄になってる傘は「傘じゃない」と言われ、両方が傘になってる傘は「使いづらい」と言われるのか←意味が出てこなかったわこの例え意味ないわ。

多分、人類が作った全ての人工物(道具も建築も食べ物もルールも)は目的があって作られたから、それを成し遂げてないと「意味ない」がしっくりくるんだろう。

盲導犬はどうだろう。しつけがなってなくて主人を誘導できない盲導犬は意味ない。命ある生き物なのでちょっと言いづらいけど、まあジョンはジョンとしては素晴らしいけど「盲導犬として」は意味ない。ジョンっていうのはおれの友達ね。人ね。盲導犬としては本当に意味ない。

意味のない生き物はどうだろう。いるだろうか。

例えばおれが今夜家に帰って寝るまでの間、できるだけ意味のない時間を過ごすにはどうすればいいのか。

例えば、早く寝る。これは意味ありすぎだ。睡眠は明日の活力につながる。つながっちゃダメだ。つなげちゃダメだ。

一人でババ抜きをする。

なかなかいい案だ。それも、机の両端に座布団を敷いて、ちゃんと1ターンずつ席を移動しながらやるとなお滑稽でいいかもしれない。ん?「滑稽でいいかもしれない」?だめだだめだ。何有意義なことやってんだ。これじゃあ終わった後「ふう、おれはなんて意味のないことをやったんだ」という達成感に包まれて。とんでもない。

でもそんなことを言ってたらどんなに「意味がない」ことをしても、この場合、「意味がない」ことが「意味」になってしまう。何故なら「意味のないことをする」のが元々の目的だからだ。

んー、ん?ちょいまち。

じゃあ「意味あること」をすればいいんじゃないか。「できるだけ意味ないことをしよう」としたのちに、「意味あること」をしたらそれは逆に「意味ない」んじゃないか。

脳科学の本を読む。

意味ある。とても意味ある。勉強になるし、舞台の脚本に活かせるかもしれないし、そもそもお金を出して買った本を然るべき方法で「使用」しているのだから、もうその時点で「意味」から逃れることはできない。

これでバッチリ。意味あることが用意できた。あとは実行するだけ。事前にしかと、「ようし意味のないことをするぞー!」と心に宣誓したのち、意味あることを実行するだけ。

んん。

んー。

んんー?

これは本当に意味ないだろうか。言葉のあや的な意味では意味ないことができてるかもしれないが、結果意味あることをしてるっちゃしてる。意味ないのは「意味ないことするぞー!」って玄関で宣誓したこと自体であり、本を読むこと自体は意味に溢れてる。結局、「意味ないことするぞー!」と言った後に、意味ないことができているわけではない。これじゃあ意味がない。これ自体が意味がない。意味意味うるさい。

よしじゃあこれはどうだ。

「本を読もうと本を手に取り、ソファに座り、さて読むぞとしおりを取った時点で、やっぱりやめようと思い立ち、しおりを元の位置に戻し、立ち上がり、本を本棚にしまい、さて何をしようかと考え、やっぱり本を読もうと思い立つ。以上を12回くらい繰り返す」

これは意味ないだろ。ほんとに意味ないだろ。意味見つけ隊の隊員たち出てこいよ。論破してみろよ。これは意味ないだろ。

だって、まず本が読めてない。せっかく買った本が、これでは意味ない。できているのはソファと本棚の往復くらい。そこで足腰が鍛えられるかというと翌日筋肉痛にすらならないだろうからトレーニングとしても意味ない。さらに、多分3回目くらいからやめたくなる。嘘。ほんとは1回目からやりたくはない。てゆうか最初からやるつもりない。死ぬほど意味ないもん。あるとしたら感想をブログに書くことぐらいだろうけど、そんなふうに昇華しちゃったらいよいよ意味あるからないので、ない。

ん?

そんなふうに昇華しちゃったら、せっかく「意味ないこと」のつもりで頑張った12往復に、「ブログネタ稼ぎ」という立派な存在意義、すなわち「意味」が生まれてしまう。全く。人はすぐに意味を生みたがる。意味生産工場かよ。意味工場かよ。

長い前置きになったが、今年就職してから、公園でぼーっとする、ということをたまにするようになった。生まれてから去年まで、やったことのないことだった。少なくとも意識的にやろうとしたことはなかった。ましてや一人でそんな意味なさそうなこと、やろうと思わなかった。

やってみたら、意外と意味はあった。いや、やっぱりなかったともいえる。

綺麗な風景を目に入れて、木の葉と葉がこすれる音を聞いて、風の温かさや冷たさをただ感じる。親子が戯れているのを遠目に見てみる。ここで「暖かい気持ちになる」とか「なごむ」とか「季節を感じる」とかはあえて言わない。言っても意味ないから。意味は俺の中にあればいいから。なんなら俺の中にさえなくてもいい。言語化できなくてもいい。

公園で池を眺めていたところに、去年の俺が後ろから声をかける。「なにやってんの?」

今年のガストンは答える。「池を見てる。」
去年のガストンは聞く。「で?」
今年ガストンは答える。「太陽の光が池に反射して、そこの木の葉っぱの裏側に、揺らめく水面が映り込んでるのが、超きれいだなあと思って」
去年ガストンは聞く。「で?」
今年ガストンは答える。「もうしばらく見てたいなあと思って」
キョネトンはきょとんとしたまま、イヤホンをつけてスマホを見ながら去っていく。
コトトンはまた池に視線を戻す。

「これの素晴らしさがわからないなんて、キョネトンは愚かだなあ」と、つい思いそうになるのを、できるだけ考えないようにコトトンは努める。

「公園でぼーっとして貴重な時間を潰すなんて愚かだなあ」と、考えてたってどうせバレないし、と開き直り、キョネトンは心の中でコトトンをバカにしている。

「自然の素晴らしさを知らない人は、きっといつかどこかで何かしら、損をするんだ。感受性が豊かじゃないとか、想像力が足りないとか、人の気持ちが考えられないとか、よくわかんないけど、この時間がただ意味ないなんてことはないはずだ」なんて、くだらないことを、コトトンはつい考えてしまいそうになり、また頑張ってやめようとする。

「多分ああいう人たちは、感受性がどうとか、あやふやで説得力のない言葉でしか戦えないんだろう。最初からこちらの不戦勝だ」と、キョネトンは愉快そうにしている。そのくせ、未だにスマホの内容は頭に入って来ず、池を思い出している。

コトトンもキョネトンも、つい戦ってしまう。つい、自分のやっていることには意味があり、それに共感してくれない相手のしていることには意味がないと思い込もうとしてしまう。そんな自分が、何かズレている気がする、と薄々感づきながらも、邪心はよぎる。

池の魚は、多分、「ご飯食べたい」とか、考えている。