沸き起こる感情には実は意志がある

ご無沙汰しております。友達に「おれぐっさんのブログ嫌いだわ」と言われつつも咄嗟に「おれ別に構わんし」「別にいいし」と全力で強がったため精神的ダメージを最小限に抑えられたガストンです。

人の感情というのは、おそらく人生を通して楽しめる、めちゃんこ面白い研究テーマの一つかと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。僕は感情のコントロールに関していくつか思うところがあります。その中の一つに「人は自ら抱く感情を意識的にあるいは無意識的にある程度誘導している」ということです。

結論から言えば人は、「こういう出来事があったからこういう感情になっている」のではなく、「こういう出来事があったときは自分はこういう感情になる「はず」だ(または、こういう感情になる「べき」だ」、こういう感情に「なった方がよい」)といった予測を立ててある程度自分の感情を誘導しているということです。

なぜなら、人は論理的に感情的になっているからです。アホを見るような目で僕を見ないで下さい。

矛盾しているようでこれは当たり前のことです。

例えば、僕達は砂漠に咲いた一輪の花を見て感動したり、友達の心なき言葉を聞いて腹が立ったりすることがあります。

これらの感情は心の内側から沸き起こるものですが、その前にまず起こった出来事を目で見たり耳で聞いたりして理解する必要があります。「砂漠は乾燥していて植物が成長しにくい」という予備知識や、言語を理解する能力が無ければ例に出したような場面に遭遇しても感情は沸き起こりません。「人肌の温もりを感じることによる直感的な安心感」などの例外はあれど、当たり前のことですが、「つい感情的になってしまって理性を失う」以前に、理性によって感情の大部分は形成されるのです。目の前で起こった出来事を頭で理解してからそれに相応しい感情が沸き起こるのです。

わかりやすい例を出せば、ドラマなどでよくある「後になってわかったけどあの時の彼のあの冷たい態度は実は私を守るためにやっていたのでしたー!!」みたいな展開は、明らかに「気づき(知識)」をきっかけに感情が沸き起こっています。

つまり感情の大部分は、体の内側から沸き起こっているように見えて実は目や耳、肌などの五感から入ってきて、脳というフィルターを一度通っていると言えます。

そしてこの脳というフィルターが、その後沸き起こる感情を大きく左右します。

例えばさっきの例の続きですが、「彼」の行為の真意に気づいた後に「なのに私ったらあのとき彼にあんなひどいことを言ってしまってああごめんなさいごめんなさい!!」というシーンが安易に予想されます。ちなみに僕の頭に居るのは石原さとみです。この時石原さとみは目の前で起こった「出来事分」悲しむだけで終わらず、「そんな彼に対してこの私ときたら」と思い返すことによって「二次感情」が沸き起こっています。これは「受け取り方」というやつです。

感情は「出来事の理解」+「受け取り方による理解」の二部構成で成り立っています。「受け取り方」による二次感情の程度は当然、人それぞれです。

例えば友達に「今のお前はまだまだ努力が足りないよ」と言われた時、「何をエラソーに!!ぷんぷん!!」となる人と「あいつはおれのこと想って言ってくれているんだ…よーしがんばろう!!」となる人とがいると思います。このように、同じ出来事であっても、受け取り方によって起こる感情は明らかに違ったものになります。

言わずもがな、「出来事の理解」よりも「受け取り方による理解」の方がはるかに大きくその後の感情に影響します。出来事の理解に関しては人の五感や言語能力、一般的な知識を基に構成されますが、受け取り方による理解に関してはその人の人となりや性格、そしてどう受け取りたいか、受け取った後どうなりたいかという願望により構成されているからです。

自分がどんな感情になりたいかの願望なんていちいち考えないよ!と思うかもしれませんが、誰しも経験があるはずです。悲劇のヒロインを演じるというのがそのわかりやすい例です。

例えばある女の子が友達にこんな愚痴をこぼしたとします。

「彼があんなひどいことを言った!

私は彼のためにこんなに尽くしているのに!」

と。ここでは

「私はこんなに彼のために尽くしているのに」が「受け取り方による理解」です。

彼女はもしかしたら、悲劇のヒロインを演じたいという気持ちが多少なりともあって、彼を悪者にして自分には非がないと自分に言い聞かせたいのかもしれません。

友達の愚痴を聞いていたら、「それ、相手も相手だけどお前も悪くない?」とツッコみたくなるという経験は誰にでもあると思います(ちなみに個人的な経験に基づけばこういう場合、実際にツッコんでみると全くの図星といった反応をされるか、やけになって余計に話の内容が感情的なものになっていくかのどちらかです)。

受け取り方による理解に多少なりの願望が含まれることは悲劇のヒロインの例に限らず、多くの場面で起こりえます。

例えば学校の先生に怒られた時に、それが正論であると心の底ではわかっているが、認めたくない故に先生に対して理不尽にも怒りの感情を抱いたり、あるいは、クラスの友達に避けられていることを認めたくなくて、自分はクラスに溶け込めていると思い込もうとしたり。これらは多くの場合自分を守るために無意識的に行われます。

本当に無意識的に感情をある方向へ持っていくようにしているときは、脳内で出来事を整理しようとする時点で、ドラマでヒロインが使っているのを聞いたことがある言葉を演技も含めて脳内再生してみたり、本当は関係性のない過去のストーリーを持ってきたりと様々な手法をとります。人が自身を守るため無意識的に行われる行為は想像以上に巧妙であると、僕は過去の自分を思い出して思います。

感情は自分の気持ちを表現するために起こるのではなく、整理するために起こります。そして整理する時には、自分にとって都合のいいように整理してしまうものです。

このように、人の感情は、脳というフィルターを通して理解され、さらに場合によっては無意識的に本心に基づき自分に都合のいいように整理されてからようやく起こると言えます。

自分でどれほど自分の本心に気づいているか、気づいていないかはまちまちです。僕自身、小学生だったの頃の自分を思い返すと、自分の非を認めたくなくて自分を叱った先生を平気で非難したりしていました。その時は、自分の非を本心では認めているからこそこんなにイライラするのだ、なんてことには全く気づきませんでした。だから今も、自分の感情に偽りはないか、言い訳しているだけなんじゃないか、などと常に客観視しようと試みてはいますが、時にはたから見ればそれが全くできていないということは大いにあるのだろうと思います。

さて、最後にこれだけは書かねば終われないことがあります。

無意識的に本心に基づき自分に都合のいいように整理されてから感情が起こると書いておいて今更ですが、人が人の気持ちを理解しようとするとき忘れがちなのは、そもそも、人の本心そのものが論理的にできていないことがままあるということです。

今までここで出した例はどれも「本心の真相」を書いてしまいましたが、いつもこうとは限りません。「こう言いつつも本当はこう思っている」などといった明快な真相が1つ用意されているわけではありません。ですが人は基本的に、物事をできるだけ単純化して理解しようとする傾向があるため、他人に1つの「本心」があると思い込みます。「本当はどう思っているの?」という問いに誰しも答えを持ち合わせているとついつい思い込んでしまいます。ドラマに登場するほとんどの人物には、読み手がストーリーを追いやすくするために、最終的な「本心」が用意されますが、現実では「こういう気持ちもあるし、こういう気持ちもある」というどっちつかずではっきりしないものである場合が、案外多いものだと思います。

それでも人は人の気持ちを少しでも理解しようとするから、人の感情は、やっぱり人生を通して楽しめる、めちゃんこ面白い研究テーマの一つかと思います。

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