批判バッカは恥を知れ

こんにちは!!進撃の巨人にはまりすぎてうっかり最新巻の11巻を買ってしまいました!!あの漫画は、巨人もいいんだけど、人間の中身に対するツッコミ(「お前そんなこと言ってほんとは自分が一番かわいいと思ってんだろ?」みたいなやつ)がキレッキレです!!ぐさっときます!!ごっつおもろいっす!!ガストンです!!

1.生産性のない批判をする人っていると思うんス。

批判することと愚痴をこぼすことと何かを嘆くことは何一つ生み出さない行為だということを常々思っていましてね。なんか僕こんな記事ばっかですね。今日地元のお祭りに行ってきました〜!!みたいなブログっぽい記事全然書いてないっすね。まいいや。

多くの日本人に見られる傾向だと思うんすけど、第三者が首をつっこんで、誰かのちょっとした抜け目や落ち度を見つけてはみんなでに一緒になってやいのやいのと批判する。芸能人のスキャンダルとかはその典型的な例だと思うけど、身近な例で言えば「教授の教え方の下手くそさ」とか「クラスのアイツの空気の読めなさ」とかさえその一種だと思うんすよ!誰かのだめなところを叩くという行為は「みんなでやれば怖くない」らしく、誰かが言い出した途端に自分も言いやすくなる。乗っかるだけだからね。

例えば教授の教え方の下手くそさを学生が教授の見てないとこでいくら議論しようと何も変わらないでしょ?誰かの空気の読めなさをみんなで愚痴ったところで何も変わらないでしょ?むしろいじめに発展しそうで怖いし、そんな小学生あるいは小学生みたいなことを未だにやってる主婦のおばさん方みたいな行為やめなされ。ちなみに「複数人による中身のない行為によって誰かが傷つく」ことをいじめといいます。

少々脱線しました。もっというと、僕は1年前、ある舞台制作団体でトップの役職についていました。舞台の脚本と演出を担当し、80人のスタッフの顔と名前を覚え、常に全員から意見を集め、批判されるときはサンドバッグになっていました。舞台の最終決定権をもつ人間が舞台に関して素人だった場合、舞台をよくするために、全員から意見を集めて取捨選択することが重要だと考えていました。

そんな中でも生産性のない批判をする人は少なからずいました。もちろん、そうでない人もいました。というか80人中、事務係などを除いてほぼ全員が舞台を作ることに関わるのですから、みんな何かしら意見は持ってるわけです。そこに生産性があるかないかの違いだけです。

2.では批判、愚痴、嘆きに生産性があるかないかの違いはどこから生まれるのでしょうか?

それは、「どこまで向き合えるか」です。要はみんな、めんどくさいんです。意見があって、それをトップの人に言うのは簡単だけど、そこから議論に発展したとき、その議論に何時間かけられるか。作業の合間の休み時間に話し込み、休み時間で終わらず放課後個人的に会って話し込み、それでも終わらず夕ごはんを一緒に食べながら話し込み、それでも終わらずお互いの同意が得られれば泊まりこみで会議もする。それでも終わらず、そんなことを何日も続ける。会うことに時間が避けないときは長文メールや電話のやりとりを長時間する。これが「向き合う」ということです。

実際に、何日間もうちに泊まりこみ、会議を一緒に重ねてくれた仲間も数人いました。その人たちは、演出に大して随分不満を持っていて、こんな舞台は作りたくないと思っていて、だから変えようと思って、トップにいる僕と向き合ったのです。こいつ1人に任せてたんじゃダメだと思ったのでしょう。どんなにめんどくさくても、何十時間と会議を重ねたのです。実際に演出は大きく変わり、他の「演出に不満はあるけどそのために何十時間も割くことはできない」と思っていた多くの人たちからも「変わってよくなった」という”評価”を頂きました。ま、彼らが変えたわけじゃないんですけどね。

何十時間と時間を割いて僕と向き合った人は、実際に変えたわけです。すごくないすか。変えたんスよ。変える権力をもつ人間の意見を変えさせて、自分がいいと思う方向に少しでも近づけたわけです。すごくないすか。

今、僕は自分が所属していた舞台制作団体を例に出しましたが、批判、愚痴、嘆きばっかりする人たちに生産性があるかないかの分かれ目は「向き合う意思があるかどうか」だということは、「教授の教え方の下手くそさ」とか「クラスのアイツの空気の読めなさ」とかを議論する際についても同じです。

批判している相手がどんなにダメか、どんなにでくのぼうか、どこがどうダメなのかなんてどうでもいいんです。僕が泊まりこみでスタッフと演出会議を重ねていたときにそんな話は一切しませんでした。生産性がないからです。大事なのは「じゃあどうすればいいか」です。

3.ではなぜ向き合う気力のない生産性のない批判ばかりする人たちは、それを続けるのか。

なぜ「誰のどこがどうダメ」かばかり話し、「じゃあどうすればいいか」をあまり話さないのか。話したとしても、それを当事者に伝えないのか。それじゃ何も変わらないとわかりながらも生産性のない会話を重ねるのか。

なぜならそこに自己満足という生産性があるからだ。結局、「言うだけ言って満足」な人が多い。嘆いて、特に「おれもそう思う」と言ってくれそうな人に対して嘆いて、同意を得ることによって「ほらやっぱり僕の言ってることは間違ってない」という安心が欲しい。自分の意見に賛同してくれる人たち同士が群がって安心を得る。いじめっ子が集団になっていじめるのと理屈は同じだ。だがこれじゃ何も変わらない。

何かを変えようとしたければそこに風穴をあけて自分たちにない意見を持つ人間の声に耳を傾けなくてはならない。それがどんなにそれっぽくて、論理的で、的を射ていて、今まで築きあげてきた自分の中にある確信と安心を揺らがされるようなものであっても、言っている内容だけを客観視して間違っていないと思ったらそれに賛同し、自分の今までの意見を切り捨てる。議論とはそういうものだ。

4.ちなみに、日本人全体には「向き合うと負け」「行動に起こすと負け」な風潮が見られます。

誰もが知っているように日本人は空気を重んじます。「こういうことするとこう思われるよね」という観察力が非常に重要で、学校でこれを学ばず勉強ばかりしていた陰キャラと呼ばれる人が大学で「コミュ力」のある人達に対して言葉にならない敗北感を思い知らされるということが多くあるのは事実です。観察力が陰ながら重要視されるのは就職後も一生、日本にいる限り同じです。

そして空気を読んでいると、「大多数の一般論と異なる意見は公言しない方が身のためだ」ということがすぐにわかります。「10人いて、9人と1人で意見がわかれている」という状況をこの国ではよしとしていません。個人の意見よりも場の空気が尊重されています。それが当たり前すぎて、誰もが「こう思っているのは自分だけ?ならここで言うのはやめとこう」という自己防衛の技を身につけています。そういう場合は別の場所で発言し、同意を得て、周りから固めていくのがこの国での”王道”だと僕は思っています。文化そのものに反対して嘆いていても実際には何も変わりません。

とにかく批判されることを恐れてみんな一般論を口にし、自分で考えて思う自分の意見というものを持たない。持っても言わない。そうしてみんな、ツッコミどころがない記事、すなわち何も自分の意見を語っていない記事を書くようになる。例えば、「今日地元のお祭りに行ってきました〜!!」のように。(←進撃のガストン今日もキレッキレです!!!!)