本質じゃないことが本質より目立つ話

今日、クラスのみんなでバスケする夢を見たんですが、すごく張り合ってていい試合だった。人生で一番楽しいバスケの試合だった。ガストンです。

今日、web制作会社のバイト先の大先輩がこう(いうかんじのことを)おっしゃってました。「本質を見抜いてる人が少ないが、本質じゃないところの方が目立つことが多い」と。もうスーパー同感したのでそれについて詳しく書く。

(ちなみに、今日のバイト先の勉強会である先輩の発表を聞いてて、やっぱ具体例を出すと途端に話がわかりやすくなるなあと思ったので僕も今回具体例から書く。

本質じゃないとこが目立つんだよなあと思う思い出話いくつか

美大のイメージ

僕は現役美大生ですが、こないだ美大とか行ってないwebデザイナーの友達に「ここのデザイン、どう修正すればいいと思う?美大生的な視点で言えば。」と聞かれて困ってしまった。美大で学ぶことはwebページデザインをしているときに現れるものではないと思う。そんなわかりやすく目に見えて違いがわかるようなことは基本的に美大では学ばないし、学ぶべきではない(独学で学ぶべき)。美大というものに憧れた時期が少しでもある人や、なにかしら美大生に対するイメージがある人は美大生の友達のちょっとした仕草やスキルや服装をすぐに「美大だからこそ」だと考えがちだが、これは全くナンセンスだ。美大で学ぶということの本質よりも、美大に対するハチクロ的な偏ったイメージが目立っている。

「やっぱサークルに入った方がいいかなあ?」

美大で、サークルに入った方がいいかどうかを人に聞いている人を見ると、「それを人に聞いているようでは、サークル入ったところで友達作って終わるよ」と思う。そもそも、「方がいいかなあ?」という質問の意味がよくわからない。それは「何的に『いい』」のかを自分で決めてるのか不安になる。サークルに入って何がしたいかが最重要なのに、そこを人に委ねてしまっては自分の満足する結果は得られないはず。

「人脈広いのすごいなあ」

僕はよく学校で、人脈広いね、すごいね、と言われる。そう言う人はおそらく、人脈が広い=「コミュ力高い」「人望が高い」「仕事が回ってくる」という関連づけを頭の中でしているのだろう。その関連づけは正しいし素晴らしいことだが、人脈が広いからそうなるのではない。コミュ力が高く、人望が厚く、仕事ができるから仕事が回ってくるようになり、それが連鎖して人脈が広がるのだ。これを勘違いして「人脈が広いこと自体が財産」だと思っている学生は多い。以前、ある医学部学生が「全国の1000人の医学生と繋がろう!」というイベントを主催しているのをそばで見ていて呆れたものだ。繋がって何をするかよりも、ただ繋がりたがっているようにしか見えない。

とまあ具体例はこんな感じである。どれも、人によってはぐさっとくるようなコアな話だ。

本質はなぜ目立たないか

じゃあなんで本質は目立たないかというとそれは言わずもがな、難しくてわかりにくいからだ。じゃあなんで本質が難しくてわかりにくいかというと、本質を理解するには経験と考察が必要だからだ。つまり「現状を知るための経験」と「本来どうあるべきかの考察」だ。例えばある優れた広告に章を与えるコンテストがあるとする。ここで金賞をとれば業界で有名になりたいからと言って、このコンテストの審査員の好みの傾向を分析するのはコンテストの設立者の意に反するだろう。『そういうことじゃねえんだよ』と。どうすればこのコンテストで金賞をとれるかと考える人は多くても、「今の広告業界に必要なのはこういう特異な作品をきちんと評価する新しい評価軸だ」といったことを考える人は少ない。

僕は過去に、大学の教授に「うちの大学の受験生をもっと増やすための企画」を提案したことがある。ざっくり説明すると、学生の活動を高校生が知るきっかけを増やすためのイベントの提案だ。すると教授は(僕の頭のなかで理解できたとこだけ翻訳するとだいたい)次のようにおっしゃった。「そんなんでウチに来たいと思うようになるような高校生が、たくさん受験してくれるようになったところで大学にメリットない。確かに少子化で入学希望者の低下は問題視されてるけど、だからって生き延びるために高校生ウケするPRしたって意味ない。ウチは「真に人間的自由に達する美術教育」ってのを掲げてやってる。ウチを卒業した学生が日本をどう変えてくれるか、には関心があるが、受験生を確保して生き延びたいわけじゃない。それだったらおまえ(僕)がウチ卒業してすごいクリエイターになった方がよっぽど大学のPRになる」と。

業界や、大学や、コンテストなど、あるものの本質を見抜くためにはまずその中に入り、現状を把握し目指すものとのギャップを理解し、そもそも何のための大学か、何のための教育か、何のための組織で、本来何をするために僕らは今これをしているのか、を考察しなければならない。