わかる人だけわかればいいってどゆこと

こんにちは!なんで空は青いのか、なんで海は青いのか、なんで青いものは青いのか、未だによくわかりません!ガストンです!

 

美大にいて、作品に対して、わかる人だけわかればいい、っていう言葉をちょくちょく聞きます。 僕もWeb担当として関わっている、小平アートサイトという展示イベントにもそんな作品がありました。

その作品が置かれてあるはずの雑木林付近に行くと、何も置いてありません。作者に聞くところ、展示期間中、作者が不定期で作品をその雑木林近辺に置くそうです。場所は決まっておらず、展示に来た人がぶらぶら歩いていて、偶然ふと目に留まる、という風に作品と出会ってもらうのが狙いだそうです。雑木林なので、置いてあっても「展示物らしくない展示」になるでしょう。

 

僕はこういった主旨の作品の面白さがよくわかりませんが、おそらくわかる人にはわかるんでしょう。そういうコンセプトに共感する人もいると思います。それ自体を否定するつもりはありません。少なくとも小さい頃から今に至るまでずっと美術館をろくに楽しめていない自分に美術的感性が備わっているとは到底思っておりません!

だがしかし!僕がそういう作品を見ていて思うのは、そういった主旨の作品が製作過程において「逃げ」の側面を見せることが多々あるんじゃないかということです。

少なくとも、展示期間初日にさっき述べた作品が、あるはずの場所にないのを見て僕は「初日に間に合わなかったのかな」と思った。 作品に「完成型」を定めず、天候や、見物人の来る時間などの偶然性のある要素との掛け合わせで「完成」だとする作品には「こうでなければこの作品は完成ではない!」といった基準がない。なるようになったその先が完成だという。 果たしてそこに「逃げ」は1%もないと言えるのか。

僕自身を含め、ムサビの学生が制作において、スケジュールを守れないことが多くあるはよく知ってる。

現に、小平アートサイトの他の作品の中には、「完成形」が初めからあって、それが期日に間に合わず初日に展示されていないものもあった。その展示場所に行けば申し訳なさそうに「この展示はありません」と書かれている。

そんな中、初めから「完成形」を定めていない作品は、展示がされていないのにも関わらず素知らぬフリだ。「わざとです」「そういう作品です」というのが、僕はどうにも腑に落ちない。間に合わなかったことの言い訳に聞こえて仕方が無い。あるいは、間に合わない可能性を見越してはじめからそういうテイストの作品にしたかもしれない。

 

ここまでねちこく疑われて、それでも心の底から「ガストン、バカだな。感性の乏しい愚かなガストンよ」と言える人には僕はもうなにも言うことはない。そういう人を僕は一人知ってる。彼がそういう制作をしても僕は逃げだとは思わない。完成形のない作品を深く深く考え、狙って、完成形のない作品を作っている。そういう人も中にはいる。

しかしガストンにこういうことを言われ少しでもドキッとした人は、そのドキッに正面から向き合うべきだ。つまり自分の表現の中に「逃げ」の側面が少しでもないか、考えるべきだ。