Wii Uに乗せたアミーボは消えて欲しいよね、について

こんにちは!間も無く白線の内側に電車が参ります!アブナーーーイ!ガストンです!

Wii Uって知ってる?おれ持ってないしやったことないんだけど、テレビゲームね。で、アミーボって知ってる?おれ待ってないし見たことないんだけど、任天堂が出してるフィギュア。でもただのフィギュアじゃなくて、そのアミーボをWii Uのコントローラ?に乗せたら、そのフィギュアをWii Uが感知して、ゲーム画面にそいつが出てくるの!マリオのフィギュアを載せたら、画面にマリオが出てくるの!で、ゲームの中でマリオが貯めた経験値とかがフィギュアに保存されてくの!たぶん!素敵だよねー。モノとしてのフィギュアが、二次元のゲームの世界とリンクするんだよ。素敵だよねー。

でね、この前ふと思った。「画面にマリオが出た瞬間に、現実世界のマリオがパッと消えたらいいのに」って。だってそうだよね。それだと本当にこのマリオが画面にワープした感じになるじゃんね。

で、そこから。今日のめちゃ面白い話ここからスタート。

現実世界のマリオが消えるなんてまあ無理だよね。でもやりようはある。例えば、テレビの上にマリオを置いたら、マリオがカション!っつって下に下がってテレビの後ろかどっかに隠れて見えなくなって、と同時にテレビ画面の上からマリオが落ちてくる。そしたら、さっきまでテレビに乗ってた「あのマリオ」が画面の中に入ったっていう演出になるじゃんね。まあこれはおれのアイデアじゃなくてこの話をしていた場にいた先輩のアイディアなんだけどね。

でね、まあそれがまだ現実的なアイディアね。ここからは非現実的なアイディアね。理想を描いてみよう。

最上の理想を考えよう

もし可能なら、テレビの上に置くんじゃなくて、WiiUの上に載ってるフィギュアのマリオがその場で頭から順番に光の粒子になって消えてほしい。ガンツの転送シーンみたいに、あれに光の演出を足してグロくなくした感じで、頭から首、肩、胸と、上から順番にヒュンヒュンヒュンヒュン!って消えてほしい。黄猿みたいな。で、画面の中で、上から順番に現れるマリオが映されてほしい。そしたらすごいやんもう完全に転送されてるやん。

どうせならこういう風に、不可能なことはわかってるけど「究極の理想」を考えてみようよ、と思ってこれは考えた。

で、次に考えたこと。ちょっと待てよ。それならもっと非現実的な理想を考えよう。もう、「画面の中に行く」とかじゃなくて、現実世界のフィギュアのマリオがそのまま滑らかに動きまわってほしい。映画のTEDみたいに。だってそうだよね。それが最高だよね。

いやちょっと待って。それが最高ではないぞ。そもそもゲームの魅力ってなんだ。おれたちは昔から妄想し続けてきたはずだ。15年前くらいのファミ通の「未来のゲーム機でできるようになってほしいことランキング」での1位はあれだったはずだ。そう、「ゲームの中に入ること」。

ちょっとここからゲームがそもそも僕ら現代人のどんな欲求を満たすために存在するかの話になってくるけども、そもそもマリオはなんで楽しいか。アクションゲームは何が楽しいか。

アクションゲームは何が楽しいか。

敵を倒したり、タイミングよくジャンプしたりするのが楽しい。でも本質はそこじゃない。本質は、「しまった!やられてしまった。くそー今度は上手くやるぞ」という試行錯誤の中にあるのだ。飛ぶタイミングが遅すぎたから、今度は早めに飛んでみようとか、そういうところにアクションゲームの中毒性がある気がする。映像がリアルなFPSゲームとかでも同じことだと思う。撃つのが楽しい。走るのが楽しい。やっつけるのが楽しい。そんでやってくうちにどんどん敵も強くなって、でもこっちもコントローラーの扱いが上手くなっていって、難しくなるほど達成した時の喜びも大きい。

それはまさしく、「遊具で遊ぶ子供」だ。僕は子供の頃、公園の遊具で「〇〇できたらすごい」という遊びをやってた。ここからあそこに飛べたらすごいとか、あのてっぺんに登れたらすごいとか、中には遊具本来の使い方からかけ離れた危なかっかしい遊び方も発明していた。あれの何が楽しいって、何度も試行錯誤して、やり方を工夫して学習して上手くなっていって、最後に達成感を感じられるところだ。そして今度はまた自分で「頑張ればギリギリクリアできそうな難易度のチャレンジ」を考える。こういったゲームを解く要領を現実世界で活かそうという考え方をゲーミフィケーションというが、そもそも逆だ。現実世界でおもしろいことを擬似的に簡単に体験できるのがゲームなんだ。さらに言えば、ゲームと遊具での遊びと、何が違うかというと、「無茶できること」だ。死んでも大丈夫。これほど楽しいチャレンジはない。おれは夢の中でこれは夢だと気づけることはほとんどないんだけど、もし気づけたら一度ビルの屋上から飛び降り自殺してみたい。蛇足でした。

まあだから、ゲームの究極形は「ゲームの中に入ること」だ。なんかこう脳に装置をとりつけて、まるで夢の中にいるかのように、五感を支配されて、ゲームの中の世界に入る。クリボーがのそのそと歩いてきて、踏んづけたらコインに変わる。で、そのコインに触れるとコインは消えて、多分視界の端にあるコインの数値が1増える。クッパとかもリアルに描かれてる。炎とかほんとに熱い。なにそれ超楽しそうじゃん。技術の進歩によってゲームの映像がリアルになったり、Wiiリモコンを振ったりして興奮できるのは、その状態に近づいているからに他ならないはずだ。

多分できる

で、驚くべきことに、テクノロジーとしては、多分もうゲームの世界に入るってことは可能だ。ヘッドマウントディスプレイとかをつけて、首を動かすと360度3DCGの世界がぐるぐる見渡せて、後は体にも位置情報を認識する機械をとりつけて体育館ぐらい広いところの中央からゲームをスタートさせれば技術上はゲームの世界に入れるはずだ。今のところ、体の動きまで検知するゲームは発表されてないっぽいが、お金さえかければできるはずだ。

アクションゲームは何の拡張か。

新幹線は足の拡張だという考え方がある。スプーンは手の拡張、電話は喉(声)の拡張といった具合に、人類が生み出した道具はすべて人間が元々自分の体で行えたことの拡張にすぎないと。服は皮膚の拡張で、暖房機能、冷房機能ということで言えば家も皮膚の拡張だ。

ならばアクションゲームは何の拡張か。なんだその難しい質問は。たぶんアクションゲームは夢または絵の拡張だ。夢の世界では空も飛べる。死んでも死なない。なんでもできる。それを現実世界に持ってきたのがアクションゲーム。または絵の拡張。人類は記録のために言語の代わりとして絵を書き始めたが、そのうち絵は想像力を育むものとしても機能した。つまり頭のなかにある、けれど現実にはない景色を、現実のものにすること。その創造欲の現れ。絵は三点透視法の発明などのステップを踏んで、さらにCG技術の発展により、映画の中で非現実は現実になる。そういう欲望にゲームは似ている。ゲームの中で非現実が現実になる

アプリじゃだめだ!アプリじゃおれは動かねェ!

言いたいことどんどん増えるぞこのヤロー。スマホアプリの普及に伴ってテレビゲームの売上が落ち込んでるけど、とても悲しいことだ。といいつつおれもテレビゲームやらずにアプリをやってる口だが、アプリじゃどうしても味わえないものがある。「新しいボス」と「新しいステージ」がアプリには出てこない。おれが昔ハマったドンキーコングはそんなことなかった。新しいステージに行ったときはまるで外国に来たときのような、見るもの全て目新しくウキウキする楽しさがあった。新しいボスに対面したときは倒し方を探るところから始まって、それはそれはもうドキドキした。最後に全クリできたときの達成感はもう何にも変えられない。子供なんかはゲーム解くのに半年以上かかるからその達成感は映画にも他のどんな娯楽でも味わうことができない。

でもアプリはそうはいかない。全クリというものがそもそもない。あっちゃだめなんだ。ユーザーはずっと確保しなきゃいけない。新しい課金アイテムや、新しい期間限定イベントを定期的に企画していかないといけない。新しいステージに行ったり、新しいキャラが出てきても、既存のものに手を加えたような描写でしかなくて新規性に欠ける。新しいボスも、難易度が上がっているだけで倒し方を発見するような喜びがない。というかそもそも課金すれば強くなるというシステムが言語道断だ。クリアの達成感を台無しにしている。

テレビゲームが小説だとすれば、アプリはスポーツだ。

小説は、主人公と一緒に冒険をする。新しい展開があり、今まで見たことのないものが現れ、それを解いて前に進んでいく。全て読み終わった後、同じく全て読み終わった友達と感想を言い合い、あそこがよかったなどと盛り上がる。まだ読んでいない人には決して味わえない何かを味わっている。

スポーツは、そもそも一人ではプレイできない。同じルールの元、複数のプレイヤーがそのルールを順守し、同じ条件の元だれがうまく、早く、得点の高いプレイができるかを競う。その活動にゴールなどはなく、みんなで高め合い、競い合うその過程に楽しさがある。新しい靴、新しいラケットなどを買い揃えていくことも大切だ。

作品を味わいたい。