投稿者「gaston」のアーカイブ

目を閉じてご飯を食べると

目を閉じてご飯を食べると、味覚というものの存在に気づく。

視力の低い人がメガネをかけるとより遠くの景色がくっきり見えるように、いつもスマホやテレビを見ながらご飯を食べていた人が目をつぶってご飯を食べると、より細かく「味」を感じることができる。

昔、ウェブの専門学校の先生が言ってた。「世の中には2種類の人間がいる。生きるために食べている人と、食べるために生きている人。前者は食事を作業のように思っていて、後者は『今夜何を食べるか』を昼から考えてたりする。」なるほどしっくり来る部分が多いと思った。そして僕は間違いなく前者だと思った。その時は、そう思った。

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真っ只中

真っ只中。まっただなか。いい言葉。

最近、真っ只中という言葉にはまっている。ええ言葉や。ええ言葉やで。

どこがどうええ言葉と思うんか、いまから説明するから聞いてや。

昔、友達に好きな人がいた。クラスの女子。もしかしたら両思いかも、と希望を抱ける類の片思いを彼は味わっていた。僕は、相談に乗るでもなくただ近況報告を聞いていた。友達も、「うまくいきたい」というより、このソワソワを楽しもうとしているように見えた。

「楽しそうで何より。勝手に楽しんで。うまくいってもいかなくても、おれはどっちでもいいけど。」僕のスタンスはそれだった。そのスタンスが、今思い出してもなんか、いいなあとおもう。

あの時の友達は、恋愛の真っ只中だったと言える。はいでてきたよ真っ只中。

人の恋愛の話を聞くのは、大抵の場合、人のその他の話を聞くよりも楽しい。でも真っ只中の当事者たちは、楽しみながらやってるわけじゃなかったりもする。うまく行きそうなときは楽しいけど、そうでもなければそうでもない。結果的に苦しんで終わりかもしれない。

でも最近は、例えうまくいかなかったとしても、何かの真っ只中になれたならそれはもう最高なんじゃないかと思う。自分が真っ只中になれた時、世界は自分を主人公とした物語に変わる。

それは本人からすればどんな恋愛話よりも、どんな小説のラブストーリーよりも、面白い。面白いというか、真っ只中。

恋愛に限らず、自分が何かの主人公になれる、真っ只中な瞬間というのが人生には時々訪れる。空の色が変わって見えるような瞬間。あるいは1分が1時間に思えるような瞬間。

人生って、何のためにあるんだろう。「真っ只中」に、ヒントがある気がする。

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テレビやFacebookやTwitterを開けば、他人の物語を膨大に聞かされることになる。赤の他人の恋愛話が溢れている。他人の物語は、コンテンツになる。「金持ち社長が一文無しになった」とか「人気若手俳優が薬物を所持していた」とか「恋愛禁止のアイドルグループの一人がホテルに行った」とか。

他人の物語が簡単に手に入る。関係者に知り合いがいなくても、週刊誌が取り沙汰し、知ることができる。

例えばクラスで誰かの体操着がなくなりました、ってなる。盗まれた可能性もあります、ともなる。クラスの数人がピンときて、他はピンとこない。なにかが進展するかもしれないし、しないかもしれない。

僕は内心、「どうでもいい」と思う。僕は情報を全く持っていない。何の役にも立てない。ならどうでもいい。結果さえ知らされなくても構わない。被害者と犯人とその他関係者がせめて、《余計な気負い》をしなければいい、と思う。

その後、結局犯人がわからずじまいだったとする。

すぐに風化し、みんな忘れる。

あるいはその後、犯人が発覚したとする。犯人は誰かに冷たくされるようになるかもしれない。

…クラスにインターネットがなければ、これで済む。ここにインターネットが入れば、そうはいかない。

まず週刊誌やマスコミなど、「取り沙汰すれば儲けが出る」立場の人たちが血眼で犯人を捜す。見つかった後も、「話題にすれば儲けが出る」彼らは、犯人のその他の悪い噂も嗅ぎつける。関係ないことも引っ張ってくる。クラスのみんなは焚き付けられる。盛り上がる。どうでもよかったはずのことが、どうでもよくなくなる。楽しくなる。

《クラス全体が、事件の真っ只中を擬似的に味わうことが出来るようになる》

真っ只中じゃなかったはずの人たちが、事件を自分ごと化し、味わう。

当事者たちの《余計な気負い》は膨れ上がり、一生消えることはない。

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関係ないけど、いやあるけど、昔テレビで見たんだけど。

あるアイドルグループのファンが特集されていた。そのおじさんは、いわゆるオタクで、グループのCDを何枚も買って、ライブや握手会にも通いつめて、とにかく献身的にお金を落としている。総選挙で推している子の順位が伸びなかったら、涙を流す。

周りの人からどう見られているか、などは気になりますか?みたいなことを聞かれておじさんは答える。

「お金の無駄だ、とか、自分の人生を大事にしろ、みたいなことを同年代の友人に言われたりもしますが、そういう時は、『じゃあお前、最後に号泣したのいつ?』と聞き返すようにしてます」

あっぱれ、でござる。

他人の人生の真っ只中を自分の中に取り込むのなら、こうでありたい。

楽しそうで何より。勝手に楽しんで。うまくいってもいかなくても、おれはどっちでもいいけど。

今、夢かどうか

昔、インセプションっていう超面白い映画の特典映像に、「夢の専門家」みたいなお爺さんが出てきて、「夢の中で“これ夢じゃん”と気づいている夢を白昼夢と呼びます」「私は夢のプロなので、白昼夢を見るのとかマジで朝飯前です。白昼夢、、白昼だけど朝飯前、、朝飯というよりもはや起床前、、だめだ上手く言えねえスマソ(意訳)」的なことを言っていました。そのお爺さん曰く、白昼夢を見られる確率を上げるトレーニングがあり、それは「現実世界で『今は夢か、現実か』を度々確認する」というもの。それが癖になって、癖が夢の中でも発動すれば、そこで気づける、と。めちゃめちゃ説得力ある。

で、ガストンはインセプション見たときにももちほんこの「今、夢かどうか確認する」っていう趣味に没頭して、なんと一回だけ夢の中でも発動したことあるんだけど、まあすぐ飽きてやらなくなる。で、今また趣味が再熱して、最近やってるんだけども。

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今日喋りたいのはね、「夢かどうか確認する作業が昔より難しくなってる」っていう話。

どう確認するかっていうと、「片手で指折り1から5まで数える」っていう。単純作業だけど、これだけで「いま現実」ってことが、よくわかった。昔は。

最近は、これだけじゃよくわからなくなった。とても不思議。指折り数えても、まだ頭がぼーっとするというか、「いま夢か、現実世界かという根本的なところ」まで立ち返れない、というか。

いま現実だ、と強く感じるためには、意外にも頭がそこそこ冴えてないとできなくて、例えば仕事の帰り道の電車とかでこれをやっても、すんなりいかない。指折り数えるだけじゃなくて、深呼吸して、目を見開いて、手のひらの指紋に焦点を合わせて、周りの景色のいろんなところに焦点を合わせる。そうするとやっと頭が冴えてきて、「いま夢じゃない」ことがわかる。

あるいは、「どうやってここにきたか」を考えるのも、夢かどうかを考えるための手段の1つなんだけど(夢を振り返ると、ある場所にある状況が突然現れ、シーンに連続性がないことが多い)、これも、最近現実でやるのがちょっと、ちょっとだけむずい。

記憶を遡るのが、昔よりむずくなってる。エネルギーがいる。少しだけ疲れる。

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この最近の、「現実と認識するのがちょいむずくなってる」原因は、たぶん仕事をしてるからだと思う。

ガストンは仕事中は結構集中してて、ガストンは集中すると深く潜っていって、脳みその該当する部分しか使わなくなっていく感覚がある。電話対応をしたり、誰かに話しかけられたりして、一旦出ると、そのあと作業に戻ろうとしても、何をしていたのかを思い出すのに時間がかかる。しかも、その時間に結構な苦痛を感じる。同じ道をわざわざ2回通るのを面倒に感じる。

フォトショやスプレッドシートを使っていて、たまに「無になって手を動かすだけが最速になる作業」っていうのがある。画像をリネームして書き出して、、を100回繰り返すとか。そういう時は自分がロボットになったみたいな感覚になるんだけど、それは結構、案外気持ちよかったりする。

んー。なんでいまロボットの話ししたかは不明。

もちろんデザインの作業のほとんどはそんなんじゃないし、頭はクリエイティブに動いている時の方が多いけど、それでも帰り道には脳みその体力切れで、現実かどうか考えることに体力を惜しみなく使えない。

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思うんだけど、『「いま夢かどうか認識する」よりも上の階層の考え事』って、あるんだろうか。ない気がする。

いま「上の階層」ってなんすか、ってなった人に、これ以上の言葉で説明するのは難しい。逆に、「上の階層」って聞いただけで「うひょーたまんねえガストン最高」って思った人には、もうこれ以上の説明は野暮な気がする。でも頑張って野暮ってみる。

夢って、いわば「世界」じゃないすか。脳の全て。現実世界イコールあなたの脳じゃないすか。ここまでついてきてる?

その脳が正常に働いてやっと日常のあらゆる考え事が行えるわけでしょ。

夢かどうかって、その根幹に関わる問題じゃんね。

世界には現実の地球と夢の地球がそれぞれあって、いま自分いんのどっちだって。それでどっちかの星に降り立って、やっと、今日の晩飯何食おうとか、ここのデザインどうしようとか、あらゆる考え事が、樹形図を少しずつ降りていくように決まっていくわけじゃないすか。たまに、人生の折り目で、転職しようかなとか、結婚しようかなとか、でかい考え事するときに人は樹形図をちょっと上に登るわけよ。

ね?上の階層って、そういう感じ。

だから、夢かどうかを確認するってことは、その一番上にいくっていうことで、いわばこう、、体が裏返る感じを感じてむしろ然るべきでは、、とかね。一瞬脳みそがバグりかける感じを感じて然るべきでは、、とかね。思うわけ。

みんなもぜひやってみて。いま夢かどうかの確認。さらには、「いま夢かどうか、どうやったら確認できたと、自分はしっくり思えるか」考えてみて。

あ、つまりね、何が今日言いたかったかというと、

僕たちはなんで、
「夢の中では夢と気づけないでいるのに、現実世界では現実世界と気づいているつもりで日々過ごしているのか」ってことなのよ。

結構、ボーーーッとしてんなあと思って。気づいたら6時間くらい寝てただけのつもりが、10年ぐらい現実世界で経ってんだろなって。

おわり。